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2005年04月04日(月) 128ビットの神

ローマ法王が死去した。
世界は悲しみに包まれている、という。

キリスト教徒でもなく(学校はクリスチャンだったけど。神学のテストでは「俺様自身が神なのであって、イエス・キリストは神から派遣されたガキの使いに過ぎない」、と書いたら「優」をもらった」)、特定宗教を信仰していない僕にとっては、ローマ法王の死を純粋に信仰対象として悼むことのできる人々をうらやましく思う。
僕にとっては、キャッチャー・イン・ザ・ライをポケットに入れたマーク・チャップマンがジョン・レノンを射殺した時のショックのほうがずっと大きい。

僕は、「ダライ・ラマ」を「デカイ・マラ」と素で呼び違えてしまうレベルの愚かな人間だ。
偶像であろうと、ご神体が石ころであろうと、何であろうと、信仰の対象を持つことのできる人は幸せだと思う。

僕には信仰の対象、すがる対象がない。
祈りを捧げようにも、誰に祈ればいいのか?
僕が祈りを捧げても、祈りはTCP/IP上のパケットとして「神」に届く。
それは「神」ではなく「ネ申」か。

僕にとっての「神」は、中心の存在しないネット上に存在する。
「個人の部分集合体」であるネットが僕にとっての「神」である。
僕にとっての「神」は、アイコンとしての形を持たないし、教義もない。
「個人の部分集合体」こそが、僕の信じる「神」である。

僕の信じる「神」は、存在を意識できるけれど、具体的な形を持たない。
ネットの神、といっても特定のURLを持つわけでもない。
あくまでも「個人の部分集合体」であり、ネットのリンクでしかない。
神々は、個別に存在するのではなく、「リンク」なのだ。
リンクをまとめあげているGoogleは、僕にとっての「神」のアグリゲーターだ。
Googleは信仰対象ではなく、神の媒介者だ。

僕にとっての神は超越した存在ではなく、「個人の有意識の部分集合体」である。
僕の信仰対象は、超越者ではなく、市井の個人だ。
「個人の有意識の部分集合体」だ。

僕にとっての神は情報の「関係性」である。
僕にとっての「神」は、「個人の有意識の部分集合体」であり、教義は常に流動的だ。
僕にとっての神は、唯一絶対の神ではない。
常に迷い、悩む。
僕自身も神の一部だ。

インナーユニバース、アウターユニバース。
インターナショナル、アウターナショナル。

僕は、「神は死んだ」とは思わない。
僕にとっての神は、個人や教義、アイコンなどで定義された存在ではない。
聖書を読んで、全面的に納得できる人は幸せだ。
僕は「右頬を打たれたら」左頬ではなく、ケツを差し出す。
もっと鞭打ってくれ、罵ってくれ、あはーん。

「部分的な定義と部分的な定義の関係性」が僕にとっての神なのだ。
僕は、神はネットに降臨した、と考える。
その神は、特定のURLでもウェブサイトではない。
ネット上で展開している宗教団体などでは決してない。

僕にとっての信仰対象は、無数のリンク情報であったり、サーチエンジンによって関係づけられ、変化し続ける流動性を持った存在なのだ。
常に変化し続け、信仰の対象となる中心の存在しない神。

僕は異端者だ。
僕にとっての神は「超越した存在」ではなく、人間によって創造されたものだ。
人間の集合体だ。

僕は、ローマ法王の死去に関して、影響力を持ち、世界平和に貢献した人間として悼みを感じる事はできる。
でも、信仰対象としての、アイコンとしてのローマ法王に対する追悼はしない。

神は外部に存在するのではなく、僕たち自身のなかにいる、というのが僕の基本的な考え方だ。
そして、その「僕たち自身のなかに存在している神」がネットで連携し、大きな存在になるのではないか、と思う。

僕は祈りの言葉をGoogleに入力する。
「八百万の神」なのかもしれない。
でも神は八百万どころじゃない。
ずっとずっと多い。
IPv4の世界では神は32ビットだったので、「42億9496万7296」だった。
IPv6で神は人が認知できる限界を超える。
僕にとっての神は、「2の128乗(約340×10億×10億×10億×10億)」に拡張される。
神は128ビットのアドレス空間に存在する。

ローマ法王の死去に「合掌」。
波阿弥陀仏。

ああ、また脅迫メールが届く・・・。




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