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2004年08月24日(火) 「禅」と「バイク」

Ducatiに乗り始めて思ったことがある。

バイクは「禅」ではないのか?
バイクの運転は、両手両足、バランス、視線、頭脳と身体の全ての機能を使う。
特に僕のDucatiのように神経質なバイクの運転は一瞬たりとも気を抜けない。
クルマの運転のように、音楽を聴きながら、カーナビをいじりながら、電話をしながら、おしゃべりをしながら、等という「ながら運転」はできない。
バイクの運転のみに集中せざるを得ない。
あたりまえのことだけれど、バイクは自力では立っていられない。
常に乗る人間からのインプットが必要となる。

バイクの運転だけに集中して走っていると、いわゆる「無の境地」に近くなる。

バイクは常に「死」にさらされている。
高速で走るクルマの隙間をひらひらとかわしながら走り抜ける。
プロテクターを着用しているとはいえ、僕は剥き身だ。
クルマのような鉄の鎧があるわけではない。
エアバッグもABSもない。
僕は、イタリアからやってきた最高時速270キロの鋼鉄の馬に跨り、「無」と「死」の傍らで「禅」を感じる。

バイクに乗ること、それはすなわち「禅」ではないのか?

同じことを考えている人がいるのではないか、と思って検索してみたら、あった。

「禅とオートバイ修理技術」ロバート M.パーシグ (著)。

この本は、僕とは異なる視点ではあるけれど、「禅」と「オートバイ」について記述されている。
「オートバイ」ではなく、「オートバイ修理技術」。
ハーレダビッドソンで、米国の2級国道を走りながら、東西の哲学、真理の追究を行っている。
「ロードムービー的哲学書」な本。
ジャック・ケルアック的というか、1960〜1970年代のビートニクの空気も感じる。

デジタルな感性を持っているハズの僕が、1960〜1970年代年代のビートニク的な感性から離れられないのはなぜなのかな?


■禅とオートバイ修理技術 ロバート M.パーシグ (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4839700524/
■路上 ジャック・ケルアック(著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309460062/




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孤独に歩め 悪をなさず 求めるところは少なく 林の中の象のように

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