生きる。を消費する
私は自分が思ったことを話したい。 面と向かって話せないことはあまり無いと思ってるつもりだが 受け手が理解できない内容の事も多くて、そういう意味で話さない事もある。 だから、わからないことをちゃんとわかるように噛み砕いて話したいとも思う。
でも、私の言うことはどれも難解で判りにくいらしく 発言に誤解を生むことや、他人を不快にさせることが多い。
だから、私はまずこうして文章に気持ちを起こす。 それで何度も読み返して、推敲してみたりして。 もちろん遭った出来事や友人の話なども、色々聞いた上で変わる事もある。 他人を見て思ったことだってそうだし、自分自身のことについてもそうだ。 それはとても非常識な内容かもしれない、誰かが傷つくかもしれない。
で、そういった思考をまとめるツールとしての場所であったインターネットだが ここ数年は「書きたいことが書けないジレンマ」に陥っている。 しがらみであったり、社会的な制限であったり・・・色々なことが私を束縛する。 だから、物を書く頻度が減ったなあと感じるのである。
大体にして、ネットをやりだした頃ってのはみな「自分が知ってる人の書いたもの」を 進んで読みたがる。私が長くネットで文章を書いてる事を最近は知ってる人も多く 「あなたの書いてる文章を読んでみたい」と言われる。でも、見せると大抵1度はこう言う。 「あの日の文章は、私の事を言っているのか」と。大抵違うんだけど、よく言われるのだ。 書いた私からしてみたら、そう思ったらそう思ったで結構だし、嫌なら読むなよ。 私の事を言ってるのか?と思ったなら、どうしてそう思ったか考えて その答えを私に聞かせてくれ。 それは、書いた私にとって大いに得るものがあり、 その人との関係もより深くなるきっかけになるのだから。 それを「読む」と云うのではないのか?と。
いちいち言うのも面倒なんで、対処の仕方もその時によって違うのですが やはりこういう事が続くと、ガラパゴスなテキストエリアでひっそり生きていきたいと 切実に願ってしまったりするのであります。
|