rioshimanの日記
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最近テレビでフランス若者の暴動の様子が流れている。このニュースを見ながら思い出すことがある。
第2回目の外国旅行では主にフランスを中心に廻った。飛行機も当時成田まで飛んで来ていたAOM機を利用していたが、予算の少ない私にはこの格安でヨーロッパに行けるフランス便はとても助かった。その後も3度ほどこの航空会社にはお世話になったが、突然日本への飛来が中止になると聞いてとても残念に思ったものだ。
初めてのパリ宿泊は、学生街近くサン・ミッシェル通りのホテルにしようと思い、飛び込みで交渉したのだが期待は見事に外されてしまった。満員だというのである。様子を見ているとホテルはまだ空いているように思われたのだが、そこから少し離れた宿に行くように紹介された。突然現れた東洋人を軽視しているような不自然な雰囲気をそのとき感じ取った。 しかしまだフランス語も自信がないし、パリも不案内、また宿を探すのも面倒なのでその指示に従うことにした。
宿はモンパルナス駅から東2つ目寄りの駅から南に歩いて5分ぐらいの所にあった。 入口で学生らしき若者が一人留守番をしていた。奥は暗く、階段下の電灯スイッチを入れると裸電球が灯り、階段を登って部屋にやっとたどり着く間もなく灯は自動的に消え真っ暗になるというものだった。うっかりのろのろしていると部屋に行くまでにあたりは真っ暗になる。(こんなことはその時が初めての経験で少しならず驚きを感じたが、その後の経験でそのような宿はあちこちで見かけられた)宿泊人は数えるほどしかいなく、鍵をもらって外に出るのだが昼間には殆どその青年の姿を見かけることはなかった。恐らくチェックアウト時の午前中と電話をもらって客の訪れる夕方時のみ居るようだった。白人の青年は知的なイメージをこちらに与えたが、ジーパンなど身に着けているものからは、いかにもみすぼらしさを感じた。
この頃日本がバブル期だったこともあってか、フランス若者たちのひ弱さがよけいに目立った。私は3日間、パリの美術館を中心に観光地をあちこち廻った。さすがにルーブル美術館は大きすぎて見る余裕はとてもなかったが、通り道の両脇に並ぶ小さなギャラリーなどに入って眺めるのはとても好きだった。
宿のチェックアウト時には困ったことがあった。旅ガイド本によるとチップは1〜2割ぐらいと書かれているが、3日間のホテル代を計算してみてチップ用の手頃な現金を持ち合わせていなかった。海外旅行もまだ駆け出しでガイドブックをそのままに信じていた。相手に少ないのは申し訳ないと思い、ちょっと多いがいいやと紙幣を置いてきたのだが後で計算してみるとチップ代は日本円に換算して5,000円ぐらいはあったと思う。何ということをしたものだと反省したが、驚いていた若者には良い懐銭になったと思う。
その後、リヨン駅より夜行列車でコート・ダ・ジュールに向かう。ここではアルルから数都市を廻ったのだが、とくにマルセイユ、ニースなど大きな都市駅周辺では外国人労働者の顔が目立ち、怪しい雰囲気が漂っていた。これらの都市で飛び込んで泊まったホテルはどこもアフリカ系黒人が宿番をしていた。恐らくホテル経営者たちは少しでも低賃金の彼らをアルバイトとして使っていたのだろう。そのようだった。多くの若者たちは仕事にありつけず、街のあちこちでたむろしていた。
このときの旅行では社会構造の複雑さを身に感じながら、国境を越してイタリアに入り、ナポリ・カプリ島〜アマルフィ〜ポジターノ〜シチリア島へと渡って行くことになる。
近年日本でも少しでも賃金のかからない労働力を求めて中国や東南アジアに進出して行く。その模様のようなものは、すでにヨーロッパやアメリカなど先進国では先行していた。
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