読了日記

2008年08月03日(日) 「オウエンのために祈りを 上下」

 

「オウエンのために祈りを 上下」(ジョン・アーヴィング著,新潮社)


内容:リンク先参照。カテゴライズ「文学」。


Iサンから借り物。
いや、たしか先月には読み終わっていたと思うんですが。

作風とかお話の前知識ナシに読んだものだから(「ホテル・ニューハンプシャー」は読んだけど、同じ作家だと知ったのは解説で)、どういうつもりで書いた本なのか皆目見当が付かず暫く読むのに苦労しました。
取り合えずこれは文学で、成形されたストーリィが展開されるというより、オウエンという青年の人生を回顧して語り聞かせる話なんだなと割り切ってからは読みやすくなりました。
つまり、ストーリィが軸、一つずつのエピソードが次に繋がりストーリィを形成するのではなく、人間が軸、一人の人間に帰属する、と。いくつもの連なりの薄いエピソードは(まあ実は結構繋がってましたが)、ストーリィ形成の部品だと思うと弱いけど、一人の人間を描くなら有効である、と。

で、これはキリスト教的にはどういう位置づけなんでしょう?
クリスチャンが読んだらどう感じるか、か。福音書なんでしょうか。それとも冒涜?
キリスト教的、人心を試すことにより己が信仰の計りとするやり方が嫌いなので、クリスチャンの考えることは分からないのですが。
これは現代的個人主義というよりやはり宗教でしょう。
日本人はよく「宗教を持っていない」と自ら言いますが、「宗教」という言葉に妄信し遣える誰ぞかが唱える教えという意味を感じるからであり、西洋人が言うところの信仰はちゃんと持っていると思う。
つまり“神”は在るものであり見守るもので、試すものではない、という。…いや、試さないとは言いませんけどね、祭壇で自分の息子の首刎ねろとは言わんやろ。
…ずれた。
まあなんだ、どっぷり日本人な私は、多分この話の本当の良さは分からなかっただろうなー。

処女懐胎については、キリスト教でないので女として昔からバカバカしいと思っている性質。
処女懐胎自体がバカバカしいと思っているわけでなく、それを唱える男どもの選民思想というか優位性の顕示欲というか?偉人であれ須らく女、しかも男により「汚された」女陰から生まれいずったのがそうまで許せないのかと。
アリストテレスだっけ?ソクラテスだっけ?「私は処女懐胎で生まれた」と裁判にまで持って行った哲学者。んで、認められたとか。
奇跡を信じないわけではないけど、そこに奇跡があるのなら、なんとショボいところに降り注ぐものだなと思ったりして。
というわけで、彼の処女懐胎は、キリストと同程度に信じていて、同程度に信じていない。
まあそんなところは物語の中核ではないわけで。

ストーリィから切り離せば、エピソードはそれぞれ面白く、ラスト数枚は「ここに繋がったか!」とちょっと興奮しました。
にしても神がオウエンに与えた使命、たったそれだけか、と、命の重みに大小つけるつもりはありませんが、アメリカが各国で繰り広げてきた正義の名をかたった虐殺を思うとあまりに小さく感じてしまうのです。

作者はアメリカを愛してはいても批判的精神も持ち合わせているように感じましたので、アメリカ嫌いの私でも読めました。

…すいません、多分的外れなこといっぱい書いてると思いますが、これ、評論じゃなくて感想ですから。


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