2006年02月24日(金) 【 中毒奇譚:2 】 |
【注意書き】
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【店主の経営メモ:本日のお客様──お得意様】
そういえばそろそろですね、と、店主は壁にかけられた時計を見て呟いた。2日に1度のこの時間、それは、店主のある種の楽しみでもあった。 ごそごそと後ろの棚を探り、1冊のノートを取り出す。店主がそれについてメモを取るようになったのはいつからだっただろうか。表紙をめくると、びっしりと何かが書かれている。よく見るとそれは──
「こんにちはー!」
店の暗さに反して、ひどく陽気な声だった。扉が開き現れたのは1人の女性。時間通りである。 綺麗に整えられた黒髪を後ろでひとつに縛り、柔らかな色合いの、シンプルながらによく似合っている服装に身を包んだ女性。扉が開いた時から絶やされる事のない笑顔は誰が見ても好印象だった。店主は自然と微笑みを浮かべ、会釈する。 「いつもどうも。本日はいかが致しますか?」 「今日はアフガニスタン風なんですよー!」 「アフガニスタンですか。アーモンドの原産地ですね……仕入れた物がありますが、いかがでしょう」 「アーモンドも良いですね! ブラニタンドリとブラニバデンジャンにしようかと思っていたんですけど」 「それは美味しそうですね。ではブラニバデンジャン用にヨーグルトもお出ししましょうか。……あとはスパイスといえば、カルダモンがありますが、チャイなども飲まれてみては」 「わ、素敵です! お願いしますー」 「かしこまりました。少々お待ち下さいね」 流れるような会話が終わり、店主が席を立つ。そして背後の扉の向こうへと入っていった。 女性は笑みを浮かべたまま、椅子に座り店主の戻りを待っている。
──2日後 「こんにちは! 今日は素敵なお天気ですね!」 きっかり同じ時間に、再び女性はやってきた。お散歩とかはしないんですか? と尋ねる女性に、店主はインドア派なのですよ、と返す。 「私も家の中にいる事が多いですけど、外に買い物に出るのは好きですよー!」 「そうでしょうね、お客様はいつも楽しそうで素敵だと思います」 店主は微笑むと、いつものように聞いた。 「本日はいかが致しますか?」 「今日はレバノン風にしようかなって。辛いのが苦手な人にはいいみたいですよ?」 「そうらしいですね。野菜たっぷりで日本人向けだとか。そうですね……オリーブオイル、レモン、あとはゴマあたりでしょうか」 「ええ、あとはパセリもお願いしますー。タブーリ用に」 「ホンムス用のひよこ豆は。瓶詰めでしたらございますよ」 「あ、それもですね!」 「かしこまりました。少々お待ち下さいね」 そしていつもの部屋入る店主。しかし今回は、すぐにそこから顔を出した。 「おっと、キサーラの赤などもございますが」 「それも是非!」 店主の言葉に、女性は満面の笑みでそう答えた。
──2日後 「こんにちは! 今日は雨で大変ですね!」 けれど雨が嫌いという訳ではないのだろう。女性はいつもの笑顔でやってきた。 「今日はフランス風なんですー」 「おや、豪勢ですね」 「お給料日だったので」 「そうですか。家庭的なものと言えば──ポトフなどですか?」 「それは外せないかなって。あとはニース風サラダなんかにしようかとー」 「ふむ。サラド・ニソワーズは美味しいですね。ではひとまず、アンチョビと黒オリーブ、ワインビネガーなど」 「あとローリエとコルニッションもお願いしますー」 「了解しました。……デザートは何に」 「まだ決めかねてるんですよ。何かオススメとかあります?」 「そうですね……桃のコンポートなどはいかがですか? アイスクリームを沿えて、バルサミコ風味のカラメルソース」 「あっ、美味しそうですね!」 「ではバニラビーンズとバルサミコ酢もお出ししましょう。本日はそれで宜しかったですか?」 「はい! お願いしますー」 かしこまりました。店主はそう言って、いつものように席を立つ。 いつもの光景である。店主は勿論なのだが、女性はいつもこうだった。幸せそうに、楽しそうに。店主は店の奥の部屋で棚を探りながら、ふと思い出す。
……そんな朗らかな彼女にも、悩み多き時期というものはあったのだ。 出会いは、そう。
──1ヶ月前 「お願いがあるんです!」 女性は、真剣な表情を浮かべて店へとやってきた。その時が初めての来店だった。店主は、女性の第一声にうんざりとした顔を浮かべそうになったのは、今では良い思い出だ。 「……お願い?」 若干怪訝さの混じる声で店主は聞いた。何をしろと。何を出せと。無言の視線を容赦なく女性へと突き刺した。別に、普段もそうする訳ではないのだが──むしろ詳細を聞くまでは笑顔を保つのだが──その日はちょうど、直前に店主に言わせれば『たかだか個人経営の店に、自分の人生預けようとする馬鹿な客』と一悶着があった後だった。 だが、女性の話を聞いて、店主は冷静さを取り戻すこととなる。 「ここに来れば何でも揃うって……お世話になっている人から、聞いて」 「物にもよりますけれどね」 「そんなけったいな物ではないです……ただ、何したらいいのかが分からなくて。何でも大丈夫ですよって言われはしたんですけど、それでも」 店主は思わず眉をひそめた。女性の話が掴めない。 「……ひとまずその椅子におかけになっては如何でしょう。気分の落ち着くハーブティーなどをお出ししましょう」 「はい……すみません……」 素直に従った女性を見て、店主は大丈夫かもしれない、と感じた。通常、店主の嫌うタイプの客は、促しても落ち着いてくれやしない。一方的に期待に溢れた言葉の数々を店主に投げかけるものだった。店主は手際よくティーカップを用意し女性に差し出した。 「まずはそれを一口飲みましょう。それから、深呼吸の後に事情をお話頂ければ幸いです」 それにも女性は素直に従った。ハーブティーを一口、すぐに目を少し大きく開いた。それもそうだ。店主自慢のお茶である。 「……ごめんなさい、私、取り乱してました……」 「落ち着いて頂けたのであれば何よりですよ。そうですね僕に出せるのはそういった、ちょっと素敵な何か、の程度であるとご理解頂ければ」 「私、ちょっと焦っていて……大丈夫ですと言われた事は嬉しかったんですけど……」 「何が大丈夫であると?」 「好きな人への告白……です」 女性は、カップを持ったまま話し始めた。 とてもとても好きな人がいて、彼の好みの女性になるべく努力をしていたのだそうだ。けれど、どうしても上手くゆかなくて女性は自信を失いかけていた。そんな時に、普段世話になっていた人物が言ってくれたのだという。 そのままで十分ですよ。 そのままの貴方で、ほんの少しの工夫をするだけで、彼にぶつかってご覧なさい? 「男性というものは、美味しい料理と赤が好き、と」 「後者はよく分かりませんが、前者は認めます」 見ての通り、店主は黒が好きである。それはさておき 「僕も、素敵な料理を作って下さる女性は好きですよ。お料理は得意で?」 「ええ、一応褒めて頂ける程度には」 「ふむ。告白の際にお作りになった料理を持参しようという事ですか?」 「そういう事です。なんですけど……」 いざ作ろうと思うと、何を作ったら良いかが分からなくなった。悩み抜いて数日、再び困り果てた女性は、そのアドバイスをくれた人物に尋ねようとした。けれど、 「盲腸炎で入院してしまっていたんですよ」 「それは災難ですねぇ」 「メニューは自分で考えてみます、だなんて強がらなければ良かったです……それで、こちらのお店の事だけは事前に聞いていたので……焦ってそのまま」 すがるように飛び込んできた、というわけだった。そういう話であれば、店主も協力をしようという気分になる。 「僕で宜しければご協力致しますよ。きっと必要である材料もお出しできるでしょう」 「ありがとうございます! ……それで、男性の方が喜ぶ料理って、何が多いんでしょう」 店主は自分の好みを思い出すように思考を巡らせた。美味しいと思えば割と何でも食べる方ではあるのだが、それを食べる事により、作った相手に思いを馳せてしまうもの、となると、また別の話である。しばし考え、そして至った結論は、 「……やはり、基本的な家庭料理。これに勝る異性を釣る餌はないですよ。まぁ僕の主観ですが」 「それで、いいんですか……?」 もっと気張ったものを考えていたのか、女性は拍子抜けしたような顔を見せた。店主は小さく微笑むと続ける。 「ええ。例えば……シンプルな具の中に、その男性が好きな具をひとつ、さりげなく入れただけの味噌汁と……あとはよく聞くのは肉じゃが、でしょうか」 「あ、肉じゃがは確かによく聞きますね……」 「ですね。全体的な栄養と色のバランスは考えたうえで、低コストで抑える事が出来ても良いかもしれませんね。それと、お酒を飲まれる方でしたら、それに合うおつまみを作って頂ければ、僕は惚れます」 「お酒……は飲んでるみたいです、ね。私の職場が洋ものの食材店なんですけど……時々洋酒を」 「時々という事はたしなむ程度でしょうね。毎日飲み過ぎる人よりは余程いいかと僕は思いますよ」 店主は自分が酒に酔うことにより、普段維持しているイメージを崩す事を嫌っている。制限が出来る人ほど、後から後悔をしないものであるというのが自論だった。まぁ、今はあまり関係の無い話である。 「それはさておき。その後にちょっと、手製のデザートなどを沿えれば、お客様のような可愛らしい方であれば完璧だと思いますよ、僕は」 事実、女性はとても……言うならばチャーミングという表現が似合いそうな女性であった。魅惑的というよりは健康的・家庭的な女性。これはあくまで店主の趣味であるが、長く付き合うならばそういうタイプの方が好きである。 一般的な感覚を持った男性であれば、この女性を振るような、独り身の輩には、蹴りの一発でも入れたくなることであろう。 「あ、ありがとうございます……それで、デザート……」 「これはそこまで張り切らずとも、ご自身が出来る範囲で、主食の合間に作れるものを用意すれば宜しいかと。食後の甘味はほんの数口あるだけでも、全体の満足度が違いますよ」 「生地を色々作り溜めていたアイスボックスクッキーがあります、ね」 「それでも十分でしょう。……と、かなり僕の主観で話してしまいましたが、大丈夫ですか?」 実際、個人個人が相手を完全に理解する事は不可能である。多少のズレはあって当然なのだ。大事なのは、理解をする事よりも、しようと思う気持ち。 店主には、女性から焦りが抜け落ちたように見えた。 「……大丈夫、です。私、頑張りますね!」 無意識で店主は微笑んでいた。それでは、と、安価で手に入るが、質は保証できる食材を幾つか挙げる。女性は嬉しそうに何度も頷いた。 「ではお出ししましょう。少々お待ち下さいね」 店主は椅子から立ち、背後にある部屋のドアノブに手をかけた。それを女性が「あ、」という声で引き止める。 「? どうなされました?」 「あの、食材の他にお願いしたいものが──」 「はい、おっしゃってみて下さい」 「赤い服を」 「こだわる理由が良く分かりませんが、了解致しました」
……その後の結果は今、にこやかに店に来ている女性を見れば、明白である。
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「では本日も、ありがとうございました」 食材を片手に店を出ていった女性を見送り、店主はふぅ、と息を吐く。
片手には、1冊のノート。開くとそこには西から東、北から南の多数のレシピ。 扉を見つめながら、ふとひとりごちた。
「……グーグルは便利ですね」
検索条件は『国名+家庭料理』、である。 万能店主は今日も必死だ。
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