いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2015年03月11日(水) あの悪夢の日から4年!忘れないで「絆」を

 今日は、東日本大震災から4年目である。あの日、私は区逆所10階の区議会本会議場で本会議に出席していた。突然の大きな揺れに議場は騒然とした。慌てふためく議員や議長を尻目に、防災担当の副区長、部長、課長はすぐさま議場から走り出した。議長はというと、どうしていいか困り果てている。補佐役の事務局長も突然の事態に、取り合えず「休憩」を進言。役人、議員それぞれの部屋に戻った。が、区議会事務局は、ロッカーや書庫が倒れ、テレビは落ちて散々な状態だった。

 私はと言えば、11階の傍聴席に向かった。議会職員は議場に集中、区管理職は持ち場に戻る。ところが、傍聴席に残された区民を皆忘れていたのだ。若い事務局職員を伴って傍聴席に向かい、全員を非常階段から避難して頂いた。自慢する訳ではないが、想定外の有事には、現場での瞬時の判断が大切である。

 控え室の戻ると、ロッカーが倒れてドアがあかない。ご子息が仙台で大学受験中という女性議員は、連絡が取れない状態に泣き崩れてしまった。とにかく、議会どころではない状態だったのだ。

 ところが、一時休憩を宣言してしまった以上、本日中に「再開」しないと、いままでの採決などが「無効」になる、という極めてお役人的発想で、議員、議事参与と呼ばれる管理職全員が待機することになる。

 倒れ掛かったローカーの中、黙々とパソコンに向かっている議会事務局職員がいた。「何やってんだ!早く再開して、終わらせよう」と、ほとんど怒鳴って急がせた。彼の仕事は、なんと「議長の発言」の原稿作りだった。そっして、出来た原稿を幹事長会に諮り、さらに議会運営委員会で決めて本会議再開となった。いやはや、緊急事態に対応できない地方議会の情けなさを目の前で経験した瞬間だった。

 再開後、議長が読み上げた原稿は

「本日のところ、本会議を延会と時期開催日程は後日連絡します」

 というものだった。いやはや!




 その後、被災地に様々な立場で入った。特に印象的だったのは、東京都医療救護班の運営ボランテイアとして気仙沼市の救護所に1週間滞在した時だ。全国の自治体から参集した医師、看護師等を調整する事務局が、東京都だった。都庁の事務方2名、都立病院の医師1名、看護師2名、そして私。




 公務員ではない、ボランテイアスタッフは私だけ。朝晩の全員ミーテイングの司会、ゴミ出し、車の管理、資料のコピー、避難所への送迎、予防接種の受付等、とにかく忙しく、朝7時から夜9時まで倒れそうになるぐらい働いた。
無論、議員であることは隠して参加だったが、派遣終了後に新幹線の中で、実は…と話すと、全員が知っていたのにはタマげた。

 被災地に、ボランテイア、つまり支援に行ったつもりが、多くの学びと感動、元気を頂いて帰京したのだった。最も大きな気づきは

当たり前のことが、なんとありがたいのか、という事だった。

 水道が出る、電気がつく、家族も、友達も、上司も、同僚も、みんな元気なこと。そんな、普段「当たり前」に思っていることが、実は「ありがたい」ことだった。

 さらに、「絆」を痛感した1週間でもあった。避難所の運営は市職員が不足していて、避難民の自主運営が多かった。それでも、皆助け合って、困難ななか笑顔で暮らしていらしたのだった。

 医師らと移動の途中、高台に残った食堂に昼食に入った。定食を頼んだのに、4名の定食とは別に、刺身の船盛りが出てきた。驚いていると、店主とそのお母さんが挨拶にこられ「東京から、わざわざ私たちのために、ありがとうございます。気持ちです!」と。全員、涙が止まらなかった。

 被災地で出たガレキを自分たちの街には持ち込ませないだの、被災地の産物は買わない等、いつの間にか、あの異常事態の中での「絆」の心が忘れられようとしている。

 今日、あらためて、あの驚愕の映像を思い出し、我が民族の誇りである「絆」の心を取り戻そうではないか!

 亡くなられた被災者の皆様、いまだ行方不明の方々のご冥福と、早期発見、避難生活を余儀なくさrている皆様の、生活再建が進みます様願ってやまない。


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