いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2011年03月28日(月) さようなら我が母校、航空生徒隊

 本日午前O時を持って、我が母校である航空自衛隊航空生徒隊は56年の歴史に幕を閉じた。15歳から19歳の青春時代を過ごした生徒隊での思い出は尽きない。もっと言えば、今自分自身があるのは、あの4年間の生徒生活があったからだ、とさえ思えるのだ。


 再三書いているが、あらためて自衛隊生徒について説明する。自衛隊生徒とは、自衛隊における急激に進歩する技術革新に対応する中堅技術陸・海・空曹(下士官)を養成する制度として昭和30年に創設された。

 自衛隊生徒に採用されると、陸上自衛隊は神奈川県横須賀市の少年工科学校(昨年より、防衛高等工科学校)、海上自衛隊は広島県江田島の少年術科学校(後に第一術科学校生徒隊)、航空自衛隊は第四術科学校生徒隊(後に航空教育群航空生徒隊)において4年間の教育を受け、卒業と同時に三等陸・海・空曹に任官される。

 在学中も給与が支給され、期末手当(ボーナス)もあり、授業料、食費などは無料という至れりつくせりの制度だ。恵まれた待遇のため、毎年倍率も高く、私が入校した昭和47年の第18期航空自衛隊生徒は東京都で3名という狭き門だった。今年の4月に入校する防衛高等工科学校第57期生(陸上自衛隊生徒)の東京都内からの推薦入試の合格者は、なんとゼロだった。一般入試でも大田区から合格は、たったの1名。

 生徒時代の4年間、それは本当に多くの貴重な体験、経験をさせて頂いた。しかし、当時としては、嫌で嫌で逃げ出したいことも一度や二度ではなかった。理不尽とも思える先輩の指導(イジメ?)、異常なほどの体力練成など、娑婆(そう呼んでいた)の高校生では絶対に耐えられない苦行を乗り越えてきた。

 ところが、受験当時に広報官から知らされていた「自衛隊のエリート」という言葉と、卒業後の進路のギャップがあまりにも大きく、多くの有能な生徒が志半ばで辞めていった。

 特に、航空自衛隊、海上自衛隊生徒においてその傾向が高く、入校・入隊した生徒の50%が辞めてしまうという年度もあった。その結果、制度設計を見直すのではなく「廃止」を選択してしまったのだ。

 航空自衛隊においては、担当者レベル、課長級レベルでは「生徒の歴史とロイヤリテイ」また「空自の中核」という理由から大多数が「存続」の意見であったが、時の航空幕僚長の「鶴の一声」で廃止に方向転換され、存続の方向だった「理由書」が、廃止のための理由書にかわった。

 廃止の大きな理由が、「曹養成が目的」だった生徒出身者のほとんどが「幹部」になってしまう、というものだったと聞く。優秀な下士官が将校(幹部)になることは組織として喜ぶべきことなのに、である。

 反対に、生徒出身の将官(最高御位)が多数いる陸上自衛隊は「廃止」など、とても言い出せる雰囲気ではなく「防衛高等工科学校」と組織を改編して臨んだ。新たな学校名、制度ののもと、昨年入校した1年生は、本来は防衛高等工科学校1期生と名乗るはずだが、多くのOBの想いから、生徒の歴史を継承して56期生と名乗っている。

 なんとも羨ましい限りである。航空自衛隊生徒の最後の卒業式は3月19日に母校で挙行された。本来は、全国からOB来賓1300名が熊谷基地に集まり、母校の廃止式典と最後の卒業式に参加する予定だった。

 ところが、あの大地震である。多くの生徒出身隊員が被災者の捜索、救出にあたっている中、廃止の式典や祝賀会は適当ではない。全国で、熊谷基地での再会を楽しみにしていた生徒出身者が涙をのんで、この苦渋の判断を是とした。集められた祝賀会費約300万円は、全員が返金を求めず、被災者に贈れることになった。

 制度創設以来、決して日の目を見ることのなかった航空自衛隊における生徒制度はこうして最期の時を、静かに迎えた。

 私は、あの青春時代を過ごした熊谷基地、航空生徒隊が忘れられない。そして、航空自衛隊生徒であったことを、いまでも誇りにおもっている。これからも、航空自衛隊生徒のモットーである「負けじ魂」を胸に、その名に恥じない人生を送りたい。


 ありがとう航空生徒隊!生徒出身隊員の被災地での任務完遂を祈る。


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