パラダイムチェンジ

2007年01月22日(月) 怒りのパワーと表現方法

現在発売中の雑誌「BRUTUS」の茂木健一郎の特集号、「脳科学者なら
こう言うね!」が面白い。黄色い表紙の奴。
中沢新一や将棋の羽生善治との対談も面白いんだけど、この本の中から
一言だけを選ぶとしたら、彼と関係の深い編集者が茂木健一郎について評した言葉である。

(前略)しかしながら、彼は茂木さんを「怖い人」だという。

「怖い、というのは、すぐ怒るとかそういう意味ではなく、茂木さんの
仕事の根本に"怒り"があるからなんです。それは科学というものを消費
物としてしか見ない世間への怒りだし、その一方で学者村に閉じこもっ
て世界の豊穣さを見ようとしない科学業界への怒りであって、しかも、
それは茂木さんの最もコアな部分での"倫理観"に発している。だからこ
そ怖い。強度が違うんです。だから茂木健一郎という人間を決して油断
して見ちゃいけない」


という部分。
人が何かを創造する時の、モチベーション、意欲のきっかけに怒りの
感情があるというのは、よくあることなのかもしれない。

例えば、司馬遼太郎の場合には、自分自身が軍人として太平洋戦争の
敗戦を体験した時、どうして日本はこうなってしまったのか、という
怒りを持ち、それを解き明かしていくことがモチベーションになって
数々の作品が生まれたらしいし、その司馬遼太郎の作品の中での坂本
竜馬は、江戸時代の幕藩体制、身分制度の理不尽さに怒って明治維新
へと導いた人物として描かれている。

そして、多分現在でも世に出ている多くの人の心の中の意欲の源泉と
して、怒りがあるのかもしれない。
例えばホリエモンでさえ、彼の行動の中には、単なる拝金主義ではなく
既成の価値観に対する怒りがあったんじゃないんだろうか。

彼がやったこと、やったとされることは別として、彼の行動を支持する
人間が少なからずいたのは、彼の心の中の怒りのパワーみたいなものを
感じ取った人がいたからなんじゃないのかな。


同じような事を思ったのは、ちょっと前のTV番組「Smaステーション」を
たまたま観た時だった。
そこには「ヤンキー先生」こと義家弘介が、ラジオ番組でいじめられてい
る女の子の相談に親身になって相談に乗っているシーンが流れていて。

印象的だったのは、そのシーンを見ていた麻木久仁子が、
「今までいじめ自殺事件での先生たちの記者会見に違和感を感じていた
理由がわかった。彼らには、自分の生徒を死なせてしまったという悲し
みや、怒りや、悔しさが伝わってこないで、ただ単に世間に対して謝っ
ているからなんだと。もしも本当に自分の大事な生徒が死んだのなら、
もっと悔しがってもおかしくないのに」
と言っていたこと。

もちろん、一概に記者会見の先生たちの態度をみて、彼らが内心で
怒ってないとか、悔しくないとか、決めつけることはできないと思う。

でも逆に言えば、いじめられている女の子の相談に乗っている時の
ヤンキー先生には、確かに理不尽さに対する怒りがあったと思うし、
そういう魂の熱さみたいなものが、いじめられている生徒に限らず、
今の生徒たちにとっては、必要なものなのではないか。

それは、わかりやすい熱血教師を演じなさい、という意味ではなく。
自分の根本にそういう怒りを持っているかどうかっていうのを、私たち
は結構敏感に感じ取っている気がするんだよね。

思えば、小泉純一郎と安倍首相の、一番の違いってもしかするとそう
いう自分の心の中にある怒りの表現の仕方なのかもしれない。

小泉純一郎が「郵政民営化」と言ったとき、そこには「既成の自民党(経世
会)的なものをぶち壊す」という強い感情があり、そこに国民が反応して
高い支持率を維持していたのかもしれない。

それに対して、安倍総理の場合、彼のメッセージがいまいち伝わり
にくいのは、彼の行動が心の中の強い感情から起こっている感じが
しないからかもしれない。
もっとも、彼の強い感情が北朝鮮に先制攻撃とか、日本の軍事化、
戦前化だったら個人的には困るわけだが(そんなに単純なものではない
とは思うが)。

でね、そういう風に、仮に怒りという強い感情を心の中に持っていた
として、それをどのように表現するか、っていうのが重要だと思うんだ
よね。

極端な例で言えば、この年末年始に渋谷区で起こった二つの殺人事件の
容疑者たちも、一時のカッとなった怒りの感情をそのまま相手にぶつけ
てしまったのが問題なわけで。

特に浪人生の彼の場合には、その悔しい気持ちをバネにすることが
できたなら、もしかしたら受験にだって成功したかもしれないと
思うのだ。

つまり、自分の心の中にどれだけ怒りというパワーの火をためておける
か、そしてそれを一時のキレた感情で爆発させるのではなくて、そこか
ら錬金術のように白魔術的なものに変換することができたなら、それは
クリエイティブなもののモチベーションに変えることができるんじゃ
ないのかな。

そういうものが、おそらくは茂木健一郎の精力的な活動の源泉になって
いるんだろうなあ、と「BRUTUS」を読みながら思ったのである。


私のことを振り返ると、でも確かに最近って「自分の中の怒りの感情」
って、ちょっと冷えていたかもしれない、と思うのである。
それは、もちろん誰か身近な人に対して怒っているとか、キレるとか
そういう意味ではなくてね。

で、多分、そういう怒りや強いモチベーションの感情がない時の私って
周囲から見ると無害な「単なるいい人」になっていると思うんだよね。

だから今年は、もう少し、自分の中に潜んでいる「怒り」の感情に目を
向けて、その強い気持ちの火を絶やさないように注意してみようと
思うのだ。
多分そういう気持ちが「負けず嫌い」という気持ちになるんだと思うの
だが。
それについてはまた近いうちにでも。


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