パラダイムチェンジ

2004年06月08日(火) 「喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな! 」

本日は読書ネタ。「喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな! 」
斎藤孝とくらたまこと倉田真由美の対談本である。

先日、斎藤孝の講演会に参加した時にもこの本について触れていて、
出たら早速読もうと思っていた本だった。
斎藤孝も倉田真由美も、この日記で何回も触れているように好きな
作家だし。

で、読んでみた感想は「正直、ちょっと物足りなかった」である。

この本の中で取り上げられている内容、例えば

・出会いがないのではなく、あきらめが早い
・自信のなさが見えると、女はしらける

・女性の場合は経験値の高さが裏目に出る
・男は女の目によって鍛えられないと、とめどなくダメになっていく
 率が高い

・「通じる」「つながる」というのは本来非常な快感で、頭がいい
 という事はすなわちつながりを生む(文脈力)があるということ
・恋愛力をアップさせるのは、会話する力
 
・喫茶店は、それだけでなくまた会話がからむ感覚を磨くのに最適な
 場所
・喫茶店で1〜2時間会話がからみ合う相手なら、どんな場所に出かけて
 行っても楽しい


などなど、いちいちうなずける内容ばかりである。

そして、この本のメインのターゲットは男性ではなく、なかなか彼氏の
できないイイ女、いわゆる酒井順子が言う所の「負け犬の遠吠え」層を
意識して書いているのも、よくわかる。

だって、この本を読む限り、いかに今の男性がダメ男、いわゆる「だめ
んず」なのか、という事を書いているわけだ。だから、負け犬層の女性
は、あなたに彼氏ができない訳は、目の前の男共がだらしないせいだか
ら、せっせと自分好みの男性に教育しなさい、と説いている訳だ。

ある意味、彼氏ができないのはあなたの男親のせいですよ、と説いて
いる岩月謙司の、対極なのかもしれない?
でも余計なお世話だが、これを読んで、そっかあ、と思って前向きに
なる女性っているのかな?いや、もちろんいるんだろうけど。

話を元に戻そう。
でも、メインターゲットが私のような男性ではなく、女性だから、物足
りない訳でもないような気がする。

では、私は一体どの辺が物足りないと感じたのか。
と、考えている内にひらめいた。
昔、倉田真由美が斎藤孝を評して言った ように、「気持ちはいいがエロ
スがない」のである。

エロス、といっても官能小説や、男性週刊誌のグラビアページや、エロ
特集記事のエロ、ではない。

以前に日記でも取り上げた河合隼雄が「こころの生態系 」 の中で
言っていた所のエロスである。
もう一回、その部分だけ引用すると


二十世紀を特徴づけた言葉は、「オペレーション」では
なかったかと私は考えています。オペレーションとは「操作」の
ことで、医学の世界では「手術」のことを指します。(略)

オペレートできるということは、こうすればこうなるという結果が
はっきり出てくるということです。そして、望む結果に直接的に
結びつく知は、みんながほしがります。いち早くそういう知を
持った人が、それによって大きな利益を手にすることができる
からです。

ところが、そうした傾向が頂点に達したところで、やっと反省
が起こってきました。それは、オペレーションの対極の概念と
しての「エロス」を見直そうとする傾向と言ってもいいかと思います。

たとえば、私が誰かを好きになったとすると、そうした気持ちは、
なんとか操作しようと思っても、できるものではありません。
エロスほど自分でオペレートすることがむずかしいものはありません。

もちろん、そのために彼女にどう近づくかとか、どのように相手の
気を引くかというようなことはいろいろと考えるかもしれませんが、
一番の根本から突き動かしてくる情動というようなものは、どうする
こともできません。

エロスは、このように理性ではなかなか処しきれない厄介なもの
ですから、とても扱いにくい。それに対し、ロゴスの世界は、何ごと
もきれいにオペレートできます。そこで、しだいにエロス抜きの社会
になってきたわけです(略)。

ところが、このごろになって、ロゴスだけで推進していくやり方では
どうもうまくいかないのではないかということに人々が気づきはじめて
います。エロスを抜きにして、何でもオペレーションだけでやっている
と、しだいに破壊につながっていくからです(以下略)。



そしてこの本は、いわば恋愛というエロスあふれる題材を、オペレー
ションの文脈で捉えている、という事に気がつくのである。つまり、
エロスをオペレーションという理性というか合理性で制御しようと
しているんじゃないかな、と思ったあたりが、物足りなさの原因かも
しれない。

でも逆に言えば、だからこそこの本は売れるかもしれない。恋愛本を
買いたいと思う人の動機で一番大きいのは、自分の中にある、もしくは
相手の心の中にあるエロスを、自分の思うようにコントロールしたい、
という欲求なんじゃないかな、と思うからである。
まあ、自分もそんな感じだったからよくわかる。

でも、個人的に今、思うのは、じゃあエロスを完璧にコントロールでき
た人が、一番幸せなのか?という事である。

むしろ、自分の中で押さえつけようと思っても、なかなか押さえつけ
られないエロスに振り回される瞬間に、よろこびを感じる人も多いん
じゃないかな、と思うのである。

そして、経験的に「だめんず」を選んでしまう女の人っていうのは、
一見、負け組に見られがちだと思うんだけど、別の見方で言えば、
自分がエロスをオペレートできる相手、ではなく、オペレートなんて
くそ食らえ、とばかりに自分のエロスを刺激する人を無意識の内に
選択しているんじゃないかな、と思うのである。

つまり、自分のエロスに対して素直な人、という事である。

そして、私が何を言いたいのか、といえば「それで別にいいじゃん」と
言う事なのである。自分の人生は一度きりなんだし。
その人がそれを選んで幸せを感じるのなら、別にいいのかなあ、と。


そしてもう一つ、エロスとオペレーションに絡めて、私の感じた物足り
なさを書いてみる。

それは、せっかく恋愛論なんてエロスあふれる題材を選んでいるのに、
斎藤孝、倉田真由美両人の話が、一般論的なオペレーションの話に終始
して、自分のエロスを語る所まで「降りて」ない気がするのである。

つまり、会話から二人の身体をあまり感じ取れないんだよね。
で、エロスの話をして一番楽しいのは、「実は俺ってさー」と自分の
身体や経験にまで降ろした時が一番面白い、と思うのである。

だからかどうかはわからないが、二人の会話もいまいちかみ合ってない
気がしてしまう。これはその直前に、斎藤孝×美輪明宏のばっちり会話
のかみ合った対談集「人生讃歌」を読んだせいかもしれないが。

でも、これはしょうがない一面もあるのかもしれない。私が自分で
恋愛論を語ろうと思う時でも、自分のエロスを元に語るよりは、そこか
ら一般論を抽出して、オペレーション的な文体で語る方が全然ラクだか
らである。

そしてそれがネット上や、また自分の友人の前で私が自分の恋愛体験を
率直に語れない理由の一つなのかもしれない。
つまり、私は単なる自慢でなく自分のエロスを他人に語る文体を未だに
持っていない、という事かもしれない。

でも、エロスをオペレーションの文脈で語る、という事は、それが全て
説明可能であるという前提で語る、という事かもしれないと思うのだ。

でも、本当にエロスをオペレーションの文脈で語りつくす事は可能なん
だろうか?
逆に説明しきれない、制御しようと思ってもしきれない自分のエロスと
どういう風に向き合っていくのか、という所に、その人の持つ色気、
というものが出てくるような気がするのだ。

だからこそ、その辺ご両人は、とりわけ斎藤先生はどうなんでしょう?
と聞いてみたくて過度の期待をかけてしまった、という傾向はあるかも
しれない。

でも、倉田真由美も、連載や、TV出演の増えた最近より、以前の方が
あけすけに自分のエロスについて語っていたような気がするのだ。
もちろん今のスタンスの方が求められていたり、売れるからかも
しれないが。
あの頃、例えば「だめんずうぉーかー」初期や「恋愛市場主義」
での岡田斗司夫との対談の頃が懐かしかったりするのである。



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