パラダイムチェンジ

2004年04月20日(火) 「自己責任」をめぐる冒険

イラク武力勢力に拉致された日本人3人と2人の計5人が、無事開放され
て、まずはめでたいと思う。その事に対して尽力をした、日本の政府
関係者の人たちにも、ご苦労様でした、とねぎらってあげたいと思う。

でも、その一方で、彼らが無事解放された後に、違和感というか、
しこりが残るのは、例の「自己責任」に関する問題である。

この問題、小泉首相をはじめとする、政府関係者と、海外の人たちの
受け取り方が真っ向から対照的なのが、とても面白い、と思う。

フランスの新聞、 ルモンド紙は、以下のような報道をしたらしい。
「自己主張もせずにネクタイと背広姿に埋もれ、流行を追いかけ、
リッチな夜を楽しむとらえどころのない若者がいる一方で、社会の
変化に参画する事で貢献するまじめで快活な若者もいる」



また、パウエル米国務長官は、最初の3人の解放後、 JNNの取材を受けた
時にこう言っている。

さらに日本の一部で、人質になった民間人に対して、「軽率だ、自己責任をわきまえろ」などという批判が出ていることに対して、「全ての人は危険地域に入るリスクを理解しなければなりません。しかし、危険地域に入るリスクを誰も引き受けなくなれば、世界は前に進まなくなってしまう。彼らは自ら危険を引き受けているのです。ですから、私は日本の国民が進んで、良い目的のために身を呈したことをうれしく思います。日本人は自ら行動した国民がいることを誇りに思うべきです。また、イラクに自衛隊を派遣したことも誇りに思うべきです。彼らは自ら危険を引き受けているのです。たとえ彼らが危険を冒したために人質になっても、それを責めてよいわけではありません。私たちには安全回復のため、全力を尽くし、それに深い配慮を払う義務があるのです。彼らは私たちの友人であり、隣人であり、仲間なのです。」と述べています。


まあ、もちろん、自国民ではなく、他国の民間人の起こした振る舞いに
対して、声高に非難する事は、アメリカ的な礼儀正しいふるまい、では
ないと言えるのかもしれないが。


でも、解放後小泉首相の語った、
「いかに善意の気持ちがあってもねぇ。これだけの目にあって、これだけ多くの政府の人たちが自分たちの救出に寝食を忘れて努力してくれているのに、なおかつそういうことを言うんですかねぇ。自覚というものを持っていただきたいですね」

と比べると、どっちが大人の意見か、と言えば、断然パウエルの発言の
方を支持したくなってしまう。
つうか、一国の首相が、危機に対して、一般人と同じような意見を持ち
続けるというのは、どうなんだろうか。

例えばこれが、自衛隊の派遣に対して反対せず、支持していた、日本
政府にとって好ましい人物たちが、拉致拘束されていたとしたら、
どうなんだろう?と思ってしまうのである。

少なくともここまで政府側はバッシングの雰囲気を出さなかったのでは
あるまいか。


でも、およそどんな思想信条を持つものであっても、政府としては自国
の国民の、生命と財産の安全を保障する義務?があるとおもう訳で。
というより、究極の話、そのために私たちは国に税金を納めているんだ
と思うのである。

だから、もちろんその努力に対する労をねぎらってあげたいと思うが、だからといって、さも、自分たちが助けたと政府が声高に主張するのも
いかがなものか、と思ってしまうのである。

もちろん、航空運賃など、かかった費用の一部は、本人たちに負担して
もらってかまわないと思う。そういう規定だってあるんだと思うし。


でも、じゃあ、今回の解放劇、全て日本政府のお手柄なのか?と言われ
たらそうでもないんじゃないか、と思うのだ。
今回の解放劇の後、複数の専門家が指摘していたのは、現地やアラブ
社会での日本人のイメージが良かった事もあるようだ。

ただし、これは残念ながら?日本人のイメージであって、日本政府の
イメージではないような気がする。
というより、おそらく今回に限らず海外における日本政府のイメージ
って、とっても薄い印象しか与えていないような気がするのだ。

で、日本政府が嫌いでも、日本人が嫌いではない、という事は何も
珍しい事ではないと思う。
私も、例えばブッシュ政権のあり方は何だかなーと思うが、だからと
いってアメリカ人全員が嫌いになったり、アメリカのことが全て嫌い
になる訳ではない。

なぜなら、私には政府に関係のないアメリカ人の友人が何人もいるし、
またアメリカ政府の行いと、彼らやアメリカ文化を直接結びつけて
考える事はしないからである。


これが逆に、もしもイラクに今まで一人の日本人も行っておらず、
アメリカの尖兵と見なされている自衛隊が派遣されていたら、と考え
たらどうだろう?

自衛隊=日本と直接結びついた関係(なぜならその場合、彼らは日本人
とはどういう人たちなのか知らないわけだから)の中で、もしも、
日本人が今回と同様に拘束を受けていたとしたら。

おそらくは、もっと危険性が増していたような気がするのだ。

そして、それは最初に拘束された3人の功績だけではなく、今までの
歴史の中で、イラクという日本から遠い地にわざわざ足を運び、そこ
で好印象を遺してきた、大勢の名もなき日本人たちのおかげなんじゃ
ないかな、とも思うわけで。

もしも、これが政府の言うとおり、退避勧告の出ている土地には、
一切足を踏み入れない、親のいうことをきちんと守る子のような国民
性だったら、どうなのよ?と思ってしまうわけである。


でね、今回の政府の見解って、先程触れた小泉首相の意見もそうだし、
例えば「渡航を制限する法律を検討すべきだ」という意見にしても、
まるで、親が子供に対して言う言葉なんじゃないか、と思うのである。

もしも、こういう意見があまり奇異に聞こえないとしたら、日本の教育
も含めて、そういう意見に我々が毒されすぎているんじゃないかなあ、
なんて気になるのである。


そして、もう一つ、自己責任を振りかざす日本政府に対して言いたく
なってしまうのは、じゃあ、肝心の日本政府のイラク問題に関する
外交政策のどこに自己責任があるんだろう?と思ってしまうのである。

大量破壊兵器の有無に始まり、現在に至るまで、日本のイラクに対する
現状分析は、全てアメリカのおんぶに抱っこ、の状態で、ただアメリカ
に、盲従してきただけなんじゃないのかな、と思うのである。

東京新聞4月20日付の特報欄「人質『自己責任論』横行の背景」の中で
評論家佐高信はこう指摘する。
「自己責任を言う人は『自分を超える社会』とか『日本を超える世界』
について考えたくないし、認めたくない。だから自己の修養で決まる
とか、道徳が大事とかそういう議論におさめようとする」



そうなんだよね、日本政府に限らず、普段自分が自己責任に問われる
恐れのない人ほど、声高に「自己責任論」を主張している気がどうして
もしてしまうのだ。

なぜなら、普段から自己責任にさらされている人は、自己責任の意味の
持つ重さと、ある種の痛みがよくわかっていると思うわけで。


また、例えば今回イラクに行っていた人たちほど、そういう日本の
無責任な「自己責任論」に対して辟易していたからこそ、日本を出て
イラクに向かったんじゃないかなあ、とも思うのだ。


で、じゃあ彼らイラクに向かった人たちが、自己責任という感覚に
対して疎かったのか、といえば一概にそうは言えないような気がする
のだ。

もちろん、中には考えの甘い人たちも沢山いたかもしれない。
でも、例えば戦場のすぐ近くで、そんな風に甘い考えをしていることは
すぐに自分の生命の危機に結びついてしまう。
だからこそ、彼らの勘や、皮膚感覚といったものに裏づけされた自己
責任感を、少なくとも日本にいる私たちよりは持ち合わせているよ
思うのである。

例えば、雪山で遭難する人たちの全てが甘い考えで登山をしている訳で
はないだろう。慎重に慎重を重ねて、万全に万全を重ねても、事故は
起こってしまうのかもしれない。

今回の事件に関して言えば、状況が変わったのは突然であり、また
自分たちが人質となり、日本政府に対して要求されるという事自体
予測の範囲を超えていたんじゃないかな、とも思うのだ。

今回の3人も、そしてその後の2人も、運は良かったといえるかも
しれない。でも、それは偶然のことであり、一歩間違えば死んでいた
かもしれない、そのことはおそらく本人たちが一番知っている事だろう
と思うのである。

もしも、それでもイラクに行くというのであれば、それを止める権利は
誰にもないと思うのだ。


ただ、その一方で、じゃあ私が彼らの行動を諸手をあげて賛成し、
そして私もそれに続こうと思わない部分があるのは、何となく
彼らの行動の背景に、自分の生きる目的というか、そういったものが
見え隠れする気もするからで。

今の時代、自分の生きる意味を求める人にとっての究極の場所が
イラクという戦場しかないんだとしたら、それはそれでなんかやりきれ
ないものを感じてしまう自分がいるのである。

という事でもしかすると続く、かも。



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