| 2007年09月05日(水) |
070905_名前のない木 |
ある本を読んでいたら、「『立派な木』というものがあるだろうか。立派な木になろうと思ったら、立派な松か、立派な梅か、立派な桜か、いずれにしても何かの木として立派にならなくてはならない」とありました。
つまり、「立派な人」になろうと思ったら、「立派な日本人か、立派な中国人か、立派なアメリカ人か、いずれにしても依って立つところの人として立派にならなくてはならない」という意味です。
それは偏狭なナショナリズムではなくて、国際的であろうとすればするほど、「では自分は何なのだ」という問いに答えなくてはならないと言うこと。
さらにその論を進めて行けば、立派な日本人であろうとすれば、立派な道産子や立派な江戸っ子になることで、立派な○○市の市民であるということだし、立派な△△高校の卒業生であり、自分の親にとって立派な子供である、ということにつながって行くことでしょう。
自分なりの向上心をつきつめるということは結局、関わって良い影響を与えてくれた人やものに感謝をしてゆくことなのではないかとも思います。
名前のない木がないように、何でもない自分という存在もないんですね、うーん。。
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