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2003年09月27日(土) 才能について

 才能とは、その発見や育成に努めるべきも
のではなく、むしろできるだけ無視するよう
努めるべきものではなかろうか。
 その才能が本物であればあるほど、中途半
端な理解と評価で先物買いして得意がるのは
罪が重い。

 才能があれば、たとえ中途半端であろうが
未完成であろうが人々を魅了することぐらい、
わけはないかもしれない。
 しかし、そこから先こそがどんな才能にと
っても容易ではないはずであり、また目指す
ところでもあるだろう。
 これは、所詮どこまでいっても一〇〇%の
完成完璧などありえない、というのとは別の
話である。

 完璧主義で有名なピアニストがインタビュ
ーに答え、こう言っている。
 「音楽を何のためにやるというより、私は
何にしろ音楽をやっていた。何のためにとい
うことはない。音楽に興味を示す人にとって、
音楽はゼロだ。完璧な演奏が出来たと思った
瞬間に、ピアニストをやめるさ。」

 このピアニストの奇人変人ぶりばかりが目
に付きやすいが、そういう余計なものに惑わ
されなければ、才能というものを考える上で
手がかりになることをずいぶん言っている。

 良いピアノは手工業的にしか作れない。
 にもかかわらず早くたくさん作ろうとする
から良いピアノがなくなってしまう。
 どこにそんなに大勢の音楽家といえる人が
いるのか。
 本来良いピアノ奏者の数は良い管楽器奏者
の数と同じである。
 しかし、世界中の音楽学校には生徒のいな
い管楽器クラスがあるのに、何千人ものピア
ニストと指揮者志望の人がいる。

 本当に良いものを聴いたり、観たり、読ん
だりしたいのであれば、数の少ないことは我
慢しなければならない。

 何が言いたいのかは分からないが、何とな
く心に残る、といった程度の短編を寄せ集め
て何冊もの本にするべきではないし、まして
や、その中から何本かの短編を選び出し、そ
のまま並行にだらだらと撮っただけの映画を
傑作扱いするのはもっとばかげている。

 レイモンド・カーヴァーの早すぎる死を悼
むより、その才能の大部分を、平均的アメリ
カ人の日常生活の断面を切り取って、ただ投
げ出してみせる、といった多くの習作に費や
しただけで終わってしまったことを嘆くべき
である。

 カーヴァー自身が言っている。
 「短編小説を書くぐらいで、この世の中で
成功できるなんて考えもしなかった。そりゃ、
成功して今みたいなことになったのは嬉しい
し、幸せだよ。しかし、ぼくはほんとにびっ
くりしたんだ。」

 ピアニストにせよ、小説家にせよ、商品と
しての需給バランスの上に存在する以上、市
場側が高い品質を求め続ける必要がある。
 供給側は常に市場の要求を満たして、儲け
ているに過ぎない。

 リパッティやミケランジェリは市場の要求
とは関係なく、その時点で最上といえる演奏
しか提供しなかった。

 カーヴァーは市場がもっと辛抱強く無視し
ていれば、きっと無視したくても無視できな
い、もっとすばらしい作品を残したかもしれ
ない。


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