店主雑感
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2002年07月06日(土) お祈り

 祈る対象が何かは別にして、誰にでも祈ら
ずにはいられない瞬間というものはある。

 必死の思いにも関わらず自分の力が絶対に
及ばぬと分かっている時、人は何ものかに祈
らずにはいられない。

 本当に純粋な祈りの場合、信仰のあるなし
は関係なくなる。
 むしろ具体的に祈る対象を持たない分だけ
無神論者の祈りの方がその純度も高いと言え
るかもしれない。

 自身の無力さを知るというだけでは本当に
純粋な祈りにはならない。
 自分以外の何ものかが頼りにできるのなら、
祈りではなく涙訴になってしまう。

 信仰者の場合でも神が人間の祈りを叶えて
くれると信じて祈るわけではない。
 現世利益を願う素朴な土俗信仰にあっても、
願いを叶えるかどうかは神の御心次第で、た
とえお聞きとどけがなくとも文句は言えない
システムになっている。

 この「すべては神の御心次第」というとこ
ろがみそである。
 お祈りであれ、お供えであれ、結果を期待
してするものではない。
 神は請託を受けて便宜供与する役人ではな
いのだから。それこそ職務権限ならこの世の
すべてにおよんでいるのである。
 起訴されたら有罪は間違いなしである。
 もちろん神は起訴できないから、贈賄側の
人間だけの話であるが。

 米カトリック教会の司教が三十年以上にわ
たって百三十人以上の少年らに性的虐待を続
け、それをまた枢機卿が長年黙認し続けてお
り、ボストン大司教区が秘密処理した和解事
案は、この元司教に絡んだものだけで一九九
七年から約五十件もあり、被害者側に支払わ
れた和解金は一千万ドル(約十二億五千万円)
もあるという。(ダラス6月14日共同)

 これに対し、全世界のカトリック信仰の総
本山ローマ法王庁からはボストン・グローブ
紙他アメリカの報道機関の大半が反カトリッ
ク主義者でスキャンダル報道を利用し、教会
を弾圧するものであるとの声が聞こえてくる。

 片や、全米カトリック司教会議では、虐待
神父に対し、なお聖職にとどまることを許し
ており、この“温情”については、聖書の教
える「キリストのあわれみ」の精神に基づく
ものだと説明している。

 まことに神の御心とは計り知れないもので
ある。結局人間の目から見ると何ひとつお力
をしめそうとはなさらない神様、時には何の
罪もない幼い魂が汚されたり、奪われそうに
なっていても、それすらお見捨てになる神様
を何故人間は祈らずにいられないのだろう。

 おそらくは、生き物としての最初の記憶に
無力な幼児期の自分をいつも窮地から救い出
してくれた力があるからではないか。

 きっと人間は本当に窮地に追い詰められる
と、無意識のうちに母親に助けをもとめてい
るのではないだろうか。
 それならとっても腑に落ちる。


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