店主雑感
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2002年05月18日(土) 本当の個性

 「赤毛のアン」はカナダ人作家によって、
1908年にアメリカの出版社から発行され
た長編小説である。
 以来、世界中で広く読まれ、圧倒的多数の
読者を獲得してきた。

 この二十世紀初頭のベストセラーの背景に
ある社会は、まだ十分に健全さを残しており、
個性豊かな作中人物の失敗や成長の物語にす
っかり魅了される一方で、良識に裏打された
実社会を揺るぎのないものとして感じとるこ
とができていた。

 ロマンティックな空想癖があって、しばし
ば、軽率な行動から妙な事件を引き起こす少
女も、本当はいい子であると見抜く目が周囲
の人々にあるからアンは愛と友情に恵まれ、
美しい田園の中でのびのびと育つことができ
るのである。

 同様に世間を避けるように兄妹で陰気に暮
らしている気むずかしい老人達に対しても、
根は正直で気のいい人間であると分かってい
るから、世間も彼等を受け入れるのである。

 決して、「少しくらい様子がおかしいから
といって、それで人間を判断してはいけない」
などという陳腐な教訓は含まれていない。

 軽はずみでお転婆な事自体は少しも褒めら
れたことではない。
 同様に老人になるまで兄妹揃って独身で、
同じ家にひっそり暮らしているのは、極めて
不自然で気味の悪いことである。

 いずれも世間の側に彼等を理解するだけの
懐の深さがあったから救われるという話しで、
むしろ様子がおかしいこと自体は大いに誤解
のもとになると言っている。

 しかし今日では、「旧弊な因習に囚われ、
平凡で退屈な生活を送っていた田舎の人々が、
一人の型破りでチャーミングな少女によって、
徐々に、すばらしい輝きと興奮に満ちた広い
世界へと目を向けることを教えられ、ついに
は真に生きる歓びを分かち合うまでに…」と
いったところが、ごく一般的な読まれ方で、
(好き嫌いは別にして)これを奇異に感じる
人は非常に少ないのではないか。

 いつの頃からか、世間とは、平凡で、退屈
な俗物共が、個性や独自性を大切にする人間
を疎外し、圧殺する愚劣なもの、憎むべきも
の、否定すべきものという図式が定着してし
まった。

 愚かで、啓蒙されるべきは常に世間の側で
あって、そこへゆくと常識に囚われず、個性
を尊ぶあなたは「愚かな一般大衆とはちょっ
と違う」と自尊心をくすぐってやるのが、い
まや、商業資本の大衆操作における基本戦略
である。

 大多数の愚かな人間はこう言っておだてれ
ば、いくらでも金を使ってくれるということ
に他ならない。

 「赤毛のアン」を素直に読めば、世間とは、
一見、偽善的な俗物ばかりに見えて、案外、
ちゃんと見るべきところは見ているし、押さ
えるべきところは押さえている。そう捨てた
ものでもないと読めるはずだ。

 無節操に子供ばかり生んで、孤児を奴隷の
ようにこき使う強欲な夫婦、女生徒を好色な
目で見る破廉恥教師、ギルバートにお熱で、
意地の悪い軽薄娘、お節介で、ワイドショー
的覗き見趣味の隣人といった、いかにも世間
にありがちな俗物を配して、これを皮肉るの
は、読者へのサービスに過ぎない。

 べつに、世間がその程度のくだらないもの
だといっているわけではない。

 それどころか、真の個性とは、実は大袈裟
な物言いや突飛な行動からは余程遠いものだ
ということをアン自身が成長と供に世間から
学んでいく物語である。



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