終電まであと1時間というところで、集中力が途切れてしまった。 同僚のアドバイスを素直に聞いて帰宅する。
途中で夕飯を食べるため定食屋に入り、食券を買うと、 奥で怒鳴っている客がいた。 なにが原因かはよくわからなかったが、 ビールを飲んで酔って気が大きくなっているのだろうか、 アルバイトじゃ話がわからんと店長を呼べとの一点張り。 どうがんばっても店長が来るには15分掛かるという店員の声も聞かず、 今来いとバカなことを言っている。
周りは、といえば、聞いているような聞いていないような、という素振りの 客ばかり。 僕も食券さえ買ってなければ店を出て行っても良かったのだが、 今このまま帰っても逃げたようで悔しい。 ということで、そいつをじっくり観察し始めた。 だが、あまつさえメモも取ってやろうか、と手帳を取り出したところで、 その男はいきなり、帰る、と言って帰ってしまった。
店員も客も呆然。
酒の勢いが弱まってきたのか、あるいは店長が来ると分かって 退散したのかはわからないし、そして僕は正義のヒーローでもない。 何もしなかった償いに、と、なにか店員に話し掛けて、 緊張でこわばった神経を解きほぐそうとも思ったが 余計なお世話かとやめた。
ただ一つ、食べ終わった後のごちそうさま、をいつもより大きな声で言った。
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梅雨の時期にふさわしい、高い湿度でねっとりとした空気の中、 流れ星はおろか、星も月も見えない空の下を歩いた。 数分前の事件を少し回想して、自分が店員だったらどうか、 店長だったらどうかをシミュレーションする。 そして、どちらにしても毅然とした態度でいられれば、 ああいう場合でも大丈夫だろうという結論に達する。
そこまで考えていたら、地下鉄のホームに着いたとたんに どっと疲れが来た。今日は早く寝よう、と思いながら終電一本前の列車に乗る。 何度乗っても好きになれない穴倉を走り抜けながら、 僕は空の上の星々を想像した。 羽化するまえの蝉はきっとこんな気持ちに違いない。
そして僕は彼らと同じように、なまぬるい地下から地上へと這い出した。 その瞬間、大きく開く空に、大きく羽根が広がる様を想像する。 生まれたときのように。生まれ変わったように。
でも彼らとは違う。 僕はこの瞬間を何度も迎える。 僕は何度でも生まれ変わる。 そう考えていれば、なんでもできるだろう。
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