きりんの脱臼
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2004年08月30日(月) 村上きわみ

えいえんは蝉のなきがら仰向けの         なかはられいこ





音彦、と呼ぶと「ぎいぃ」と鳴いた。
少しねむそうだ。
ちょっとのあいだ頭を抱きかかえてやると、胸のところでまた「ぎいぃ」と鳴く。
くぐもっている。
湿っている。

あたしはたんぼの畦道に立ち止まって、
川の匂いをかぎわけようとしているのだけれど、
ほんとうは川に着くのがすこしこわくなってもいたから、
わざと反対の道をたらんたらんと歩いてここまで来ちゃったんだと思う。

(ねえ、音彦、あれはなんの花?)

(みぎあしとひだりあしどっちが長い?)

(おなかすいてきたね)

川には前にも来たことがあって、ほんとうはどっちに行けばいいかあたしは知ってる。
カンナの咲いているほうへ行っちゃいけないことも知ってるけど、
だけどあんまりカンナが豪勢に咲いているので、
すこし褒めてやらなくちゃいけないような気持ちになっていて、
だからあたし、こっちに、歩いてきた。

(一緒に褒めてあげようね)

(あ、いい風)

(ここで少しねむっていくのはどうかな)

音彦はどんどん湿ってしまう。
どんどん湿ってどんどん黙り込む音彦はなんだか泣きたくなるほどかわいいから、
ここで泣かなくちゃいけないような気持ちになって、あたしはすこしだけ、泣いた。
そうやって、泣きながら、
たんぼの上をわたってくるたっぷりと水をふくんだ風に吹かれていると、
あたしは犬よりも桃よりも誰よりも音彦がすきだっていう確信でいっぱいになってきて、
つむじのあたりからつぎつぎなにかがあふれてくるようで、うんと困りながら、
「犬よりも桃よりもおまえのことがすき」と言いたい気持ちで頭がわんわんする。

(でも行かなくちゃ 川へ)

(ぎいぃ ぎいぃ)

とんぼがいっぱいいる。
冴えない色をした一匹のとんぼが、胸にぶつかって、かさ、と音をたてて落ちた。
こういうとき音彦だったら、いのち、なんてことばは使わないはずだから、
あたしも、いのち、なんてあぶないことばがつるんって出てこないように慌てて口をおさえて、
かわりに、みぎの踵にうんとちからを入れて草を踏んだ。

匂いがどんどんつよくなる。
じきに川だよ。

あたしたちは確か川になにかを流しに来たはずだった。
でも、歩いているうちに「なにか」なんてどうでもよくなってきたから、
ねえもうどうでもよくなった、と声にしてみると音彦は「ぐぅ」と鳴く。
それが諾の意味なのかどうなのかもあたしはどうでもよくなって、
じーきーにーかーわーだーよー、と言いながらもういっぺん音彦の頭を抱え込んだ。

こわくないよ。
こわくないね。
だいじょうぶ。
犬より桃よりおまえのことがすきだから、
おまえがこの世界をこわくないものにかえてくれたから、
だから、
もうだいじょうぶ。

そう言うと音彦は、げろんっと音をたてて小さな針をひとつ、吐いた。
なんてぴかぴかの針だ。
うれしくなったあたしは、音彦の唾でひかっているその針をひろいあげ、
さっきとんぼがぶつかった左胸のまんなかあたりにゆっくり刺し込んでから、
ずっとずっと言いたかったことばを、ようやく、口にした。


(             )


そのことばが、音彦のからだのどこかへみるみる吸われていくのを確かめて、
あたしは、
あたしたちは、
川の、うんとそばまで行きたくて、
川に、ただまっすぐさわりたくて、
ゆっくり歩きはじめた。






銀杏のような喉からなつかしい声がいくつもこぼれてきます  村上きわみ


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