| 2006年05月28日(日) ■ | ||
| 消極的なまでの破壊行動 | ||
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マッスルミュージカルを見てきましたですよ。 行くまでにひと悶着あって、内容よりもそっちで苛苛した感じですけども。 あんまり「マッスル」な感じじゃなかったなあ。 そもそも「犬」っていうのがなんだかなあって感じで、肉弾戦を期待していた夏目としてはがっかりな内容でした。 ひろみちお兄さんしかわからなかった…。 種の映画化にまにましてます。 「銀幕に降り立つ」とかゆわれちゃうともう、「銀幕!銀!おかっぱ!」とかゆっちゃって…ああああああだめだもうにまにまだよ! デステニではなく、あくまでも種なんですかね。 したらもう帝王様大活躍でしょうか。 なんでもいいからイザーク! ゼミメモ 基礎ゼミ��[ 仏教に関連する人物を調べる ] [ 一休宗純とういうひと〜破壊禅僧〜 ](仮題) 1.「一休宗純」と「一休さん」 はじめに、一休宗純という人物は、後に「一休さん」として知られる人物と同一であり、また、異なる存在である。おわかりの通り、頓知話の「一休さん」とは一般大衆にとって馴染みやすいように脚色を多分に含み、面白おかしくつくりあげられた存在に過ぎない。 しかし、この「一休さん」として登場するほどに、「一休宗純」という人物はあまりに強烈だったというのは事実だ。(当時としての禁忌とされる女犯(にょぼん)、肉食等等、あまりに自由奔放な振る舞いは仏教界にとってまさに「異端」というほかないだろう。) さて、私は今回、一休という人物の人となりよりもまず、当時、仏教界を騒がしたその「破壊」的行動を調べることにした。 2.「破壊」的が「破壊」的である理由 一休宗純という男は、何も世の中を舐めていたわけでも、才能がないから破壊的だったわけでもなく、彼はとても賢い男だった。六歳で入門、受戒し、早くから詩の才能に目覚めた。彼の少年時代に作られた漢詩は多くの賞賛を集めたと言われている。その上、後小松天皇(ごこまつ)のご落胤説まである。そして宗純は応年27年のある夜、カラスの鳴き声によって悟りを得ている。 彼は決して、不真面目であったわけではないのだということがわかる。 若い頃の宗純は、僧の身でありながら女をあさり、時には遊女に通い、飲酒や肉食は日常茶飯事で、寧ろ当たり前のことだった。宗純が高齢に達した頃には、森という盲目の女性と同棲をしていたというのはあまりに有名で、さらに弟子であった紹禎(あきつぐ)は宗純の実子ではないかという説もある。妻帯の許されない当時の仏教界においては、醜聞といっても過言ではない事実だ。 しかし、この自由奔放な、ある意味で人間として忠実な生活は、ただの「エゴイズム」というわけではない。 宗純は深く仏教に介入し、それを理解し、自分の中での説を持っていた。宗純にとってこの「煩悩」といっても過言ではない欲望の露出は、仏教界に対する批判だったのである。 仏に帰依することによりその精神清らかたらんとし、経や説法を口にしては、大衆は有難いと拝む。しかしその一方で、仏教界では権力に固執するものや、あらゆる「物質」への執着などが強くなり、本来あるべき仏教とはかけ離れた存在になってしまっていると宗純は感じていた。 ならばいっそ、戒律も形式も取り払って人間らしく生きようぞとはじめたのが、宗純の「破壊」的生活だったのだ。 3. しかし、その批判的行動はまさしく「破壊僧」として呼ばれるに相応しく、ほかにやりようがなかったのかとも思える。 けれど、こういった行動を選んでしまったあたりに「一休宗純」という人物の本来の性格が窺い知れるだろう。 強烈なまでのその存在は、そういった「破壊的」な面でしか浮き彫りになることはないが、宗純は僧としての役割もこなしていたということは、しっかりと言っておきたい。 以 上 参考文献 「一休 乱世に生きた禅者」市川白弦(著) 1970/12 日本放送出版協会 「一休」水上勉(著) 1978/3 中央公論新社 参考サイト 「ウィキペディア」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91 資料 13歳のとき作った漢詩「長門春草」 秋荒長信美人吟 径路無媒上苑陰 栄辱悲歓目前事 君恩浅処草方身 秋荒れて 長信美人(ちょうしんびじん)吟ず 径路無媒(けいろむぼう) 上苑(じょうえん)の蔭 栄辱非歓(えいじょくひかん) 目前の事 君恩浅き処 草まさに深し (大意) もの悲しい秋の中を 長信宮の美しい人は 吟じながら 宮殿の庭の 径無き蔭を行く 栄枯廻る世のことは すぐにもやってくる 君恩の浅い庭は 草深く荒れている 長門は漢・武帝の陳皇后が、帝の寵愛を失い、追いやられた宮殿のことである。司馬相如(しばしょうじょ)という作家が、陳皇后に依頼されて作った「長門賦」という作品がある。その内容は、美人失寵の怨みを綴ったものであったという。 長信美人とは、漢・成帝の寵姫が他の姫に意地悪をされて、みずから宮殿を出て、長信宮の后の侍女になったのをふまえているという。 一休は、寵愛を失った女性たちの悲哀と、生母の身上を重ね合わせ、この詩を作ったものと思われる。 15歳のとき作った漢詩「春衣宿花」 吟行客袖幾詩情 開花百花夫地清 枕上香風寐耶寤 一場春夢不分明 春衣(はるごろも)して花に宿る 吟行(ぎんこう)の客袖(きゃくしゅう) 幾時(いくばく)の情ぞ 開落(かいらく)す 百花天地清(きよ)し 枕上(ちんじょう)の香風(こうふう) 寐(び)か寤(ご)か 一場(いちじょう)の春夢(しゅんむ) 分明(ぶんみょう)ならず (大意) 春の衣を着て 花の下に眠る 春を歩けば 袖の中には詩情をはらみ 開いては落ちるあまたの花で 天地は清々しい 枕の上に香る風は 眠るともなく 覚めるともなく 春の夢は うつつか幻か |