川崎連絡会議日報

2006年10月21日(土) 「軍隊は船員も市民も守らなかった」

望月さんのメールからを紹介します

 17日、川崎で海上自衛隊の戦車揚陸艦「しもきた」の入港阻止という緊急集会が持たれ、集会後は会場の教育文化会館から銀流街という目抜き通りから駅前までデモ行進を行いました。人数は少なかったのですが、時局を踏まえた良い集会でした。
 集会の講師が藤丸という全日本海員組合教宣部長でした。彼の話が印象に残りましたので、レジュメに話の内容を加えて、文章化しました。
 憲法改悪阻止のためにも、是非読んでください。
望月 10月18日付

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http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_65.htm

「海上から」という視点で日本の現状を顧みる

 昨10月17日夜、川崎港に海上自衛隊の戦車揚陸艦「しもきた」の入港反対緊急集会に参加しました。講師の藤丸徹さん(全日本海員組合胸腺部長)の話がとてもユニークで、印象深いものでしたので紹介します。

テーマ 「軍隊は船員も市民も守らなかった」

1、戦時下の船員の苦難
  14歳から80歳の古参船員が船員徴用令に根こそぎ徴用動員された。
  死亡者数と船舶損害
  船員は約62000人が戦没。1万隻以上(88%)の船舶が撃沈された
  船員の死亡率は陸軍の10%より上回る20%以上におよぶ。
  生き残った船員も2回から4回、血と油と死体の浮く海に投げ出され泳がされた。
  昭和40年代に外国航路の船員になった私はソロモン諸島沖とかバシー海峡を通過するとき、先輩の船員たちが黙祷し回顧話をするのに耳を傾けなかった。今、考えると申し訳なかったと思う。若気のいたりだったのです。

2、船員の戦後の困難
  船員は1946年9月まで戦時体制が続いた。それはアジア各地に派遣された軍人や軍属、強制徴用労働者の引き上げ業務が続いたからだ。日本には船舶がないのでアメリカの上陸用舟艇(戦車用とか人員用)200隻余りを借りてその業務が遂行されわるまでは終戦ではなかった。
1950年 朝鮮戦争勃発。日本人船員は8000人以上がアメリカ軍の運送や戦病者、戦死者の海上運送に従事させられた。自分の意思ではなく、朝目覚めると、朝鮮の港に自分が乗っている船舶がいるという状況が多々みられたと報告されている。
1965年 ベトナム戦争、敗退したフランス兵の引き上げに日本の船舶が利用され、幾千ものフランス兵の帰国運送にも日本の船舶船員は従事した。
1980年 イラン・イラク戦争では日本船舶12隻が被弾攻撃され、2名の仲間が死亡、狂気の海でオイルルートを確保。イラン・イラク軍は日本船舶を見分けず、攻撃をしかけるので、攻撃を避けるため、船腹に大きな日の丸を画き、国籍を鮮明にしたが、それでも攻撃されることもあった。
1990年 湾岸戦争
2003年 イラク戦争
 翌年4月25日、わが国の超大型タンカーが入港中のイラク南部バスラ沖の石油輸出ターミナルが小型ボートによる自爆攻撃を受け、ターミナルが一部派買いされた。幸い船舶と乗組員には被害はなかったが、ロケットや破壊されたターミナルの一部と思われる破片が本船の至近に飛来。日本の海運は戦争の中に巻き込まれているといわざるを得ない。

3、食料の大半は外国からの輸入に頼っている。食料の自給率はカロリーペースで40%、綿、ウール、化学繊維の原料はほぼ100%、海外からの輸入です。

4、エネルギー資源と現資材の殆どを輸入しています。
 原油99,6% 石炭100%、LNG100%、LPG76,8%、木材75,9%、綿花100%、羊毛100%、とうもろこし100%、小麦90,1%、大豆98,0%という状況です。このような輸入大国日本が戦争によって海上封鎖されたら市民の生活はどうなりますか。戦争反対の具体的な根拠です。前の戦争のときアメリカは日本の大艦船主義(軍艦大和に象徴される)ではなく。非戦闘員無視という戦術で、小型戦隻(主として潜水艦)を多用して、日本の輸送船団攻撃を実行し、海上封鎖した。日本近海に敷設された機雷は1万個を超え、日本軍の敷設したものよりも多いという。戦後の海運はそれらの機雷の除去と平行し、絶えず危険に晒されてきたのです。

5、徴兵と徴用の違い(徴用の危険性・徴用には年齢制限はない)。武力攻撃事態には、兵站(後方支援は)不可欠。交通運輸産業と労働者の業務従事命令の発動が必然的に実施される。戦時の国民総動員令が施行されたように。

6、今後のたたかい
 有事法制を実効的に発動させない運動とたたかいの構築、特に、業務従事命令となる労働組合の結集が必要です。

以上


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