Spilt Pieces
2004年02月01日(日)  役割
田舎が好きだ、と、私は言う。
都会が好きだ、と、友人は言う。
都会は息が詰まる、と、私は言う。
田舎は不便だ、と、私は言う。


茨城に引っ越してきてから8年が経った。
父の会社の社宅に数年住んでから後、現在新興住宅地の一戸建て。
家のすぐ近くにはハス畑が広がり、水鳥が訪れる。
都心まで一時間ちょっと。
各駅間は長いけれど、電車の本数は割と多い。
家の前の畑が風で舞い、車のウィンドウはしばしば埃まみれ。
だが、便利だ、と思う。
農業大国茨城。
災害に遭っても生きていける、なんて、冗談めく。


時折気まぐれに、もしくは用事があって、東京へ出かける。
電車に乗っている時間は大抵本を読んでいるから、あっという間。
家から大学までの往復程度の時間。
生活にそう多くを求めていないからか、私は茨城も東京も大して変わらないような気がしてしまう。
方言は、愛嬌。
大型の書店がなくても、最近はインターネット注文ができる。
それなのに、どうしてだろう。
いつだって東京へ行った後は、何をしていなくても頭が重くなる。
半分は優しさでできている、というCMの錠剤を3つ、口に放り込む。
やたらと効く。


人と人がすれ違うのは、田舎と呼ばれるこの場所でも、都会と呼ばれるあの場所でも、同じこと。
知り合いにでも会わない限り、さしたる表情を浮かべることもなく街を歩く。
違和感は、どこから発生しているのか。
少なくともここは、肩肘張っている人が少ないのだと。
感じるのは、その程度の違い。


人が街に、その場所に求めるものの違いが、空気を変えていくのだろうか。
以前誰かが、東京は田舎者の集まりだ、と言った。
確かにそうだと思う。
本当に東京に生まれ育った人は、妙な都会風を吹かせることなく、他の誰かにとっての故郷と同様の感覚で見ているような気がするから。
自然体だ。


街は、人間が住む場所として構成されている。
だが、それ以上の役割…つまり、住む人以外のたくさんの人に対する役割まで無理やりに果たそうとした瞬間、何かしらの歪みが生じてしまう気がする。
無意識的な役割自負か。
それは都会に限らず、田舎と呼ばれる場所においても。


私の偏見かもしれない。
田舎に行きたい、と願うとき、多くの人がそれぞれが持つ独自の「田舎」像を求めているのではないか。
都会に行きたい、と願うとき、多くの人がそれぞれが持つ独自の「都会」像を求めているのではないか。
そしてそれが何となく、色んな人の感情が被ったときに、街は本来持っていたはずの役割以上のものを演出するハメになる。
後づけのイメージが、街本来の姿に先行する不思議。


例えば、癒しの空間を謳う田舎町に、24時間営業のレンタルショップが立ち並ぶことを喜ぶ人は少ないのではないか。
仮に、そこに住む人たちがそれを求めたとしても、「イメージ」に合わなければ、流れる空気が差し止める。
例えば、洗練された町並みをウリにしている都会の高層ビル群の隣に、平屋の木造建築が延々と並ぶことを喜ぶ人は少ないのではないか。
これも、田舎町と、同様に。


きっと、一つのイメージを定めてそれを進めていくことの方が楽なのだ。
地域をアピールしていくキーワードも、たくさんあってはやりにくい。
ならば、そこに住む人たちに合った街を作っていくというよりはむしろ、合う街に移動していった方が生きやすいに違いない。
街はずっと同じ場所にあるけれど、人は移動できるのだから。
街ごとのイメージは、いつの間にか、この数十年で定まってしまったものなのか。
変えられたなら面白いと思う。
ただ、無意識、は怖いとも、思う。


都会の例として東京を出したのは、私が関東人だからにすぎない。
西の方でいうなら愛知・大阪・福岡か。
よく分かってないのだが。
しかし西は、関東のように一極集中ではないような気がする。
東京に集中する傾向はよくないと主張する人は数多くいるはずなのに、状況はちっとも変わらない。
多分、慣れてしまったんだろう。
分担された役割の中で、求められた役を演じることに。


変わらないものが嫌いだ。
変わらないものは、大きく色んなものを変えてしまうから。
無意識は怖い、と書いたけれど、実際は、その無意識だってコントロールできるのでは、と思ってもいる。
勿論、悪い意味ではない。
一人の力が小さいからといって、諦めていたら尚更何も変わらないから。
変わらない、ということは、前進を止めてしまうことに繋がってしまうかもしれないから。


可能性を見出す、なんて言ったら表現が大袈裟すぎるだろうか。
だけど、小さな町や村の過疎対策などを見ていると、仕事云々の前に、「田舎は田舎」という意識レベルでの考えが変わらないことには、何一つ進まないのではないかという気がしてしまう。
私が参加しようとしているプログラムで、幾つかの町村が「いずれ定住してくれたなら」という発言をしているのに、がっかりする。
小さな力をも尊重しようとしているということの表れかもしれない。
だけど、一時的な誤魔化しをしているだけのような気もする。


役割、なんて、ひょっとしたら最初からどこにもなく、ただ、自分たちが勝手に当てはめた挙句に思い込んでいるだけなんじゃないか。
ああ我ながら口が悪いと思いつつも、どうすれば少なからず影響を残してこられるか、と、図々しくかつ傲慢な考えを抱いてしまうのだ。
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