Spilt Pieces
2003年04月29日(火)  技術
私の愛用している携帯電話は古い。
高校生活も終わろうかという年の3月、すでに0円で店に出ていたものだ。
かれこれ3年以上の付き合いになる。


単音、単色。
当然のようにインターネットへの接続機能などついていない。
件名表示欄がないので、しばしばそこに用件を書いて送ってくる友人との間で話が噛み合わなくなる。
「件名:○○です」「本文:携帯の番号変わりました」
私には、本文しか読めない。
誰ですか?と返信すると、少なからずショックを与えるらしい。
ほんの数年。
されど数年。
あっという間に、フルカラーで画像まで送れる機能を持つ携帯ばかりになった。


古びた携帯を今も使っているせいか、「物持ちがいい」と言われることがある。
しかし実際のところ、私の扱いはひどい場合が多い。
放り投げたり、床に落としたり、鞄の中で別の物とぶつけてしまったり。
横着して風呂で電話をかけることすらある。
しかし、今まで故障したこともなければアンテナも無事だ。
私の物持ちがいいというより、単にこの携帯が丈夫なのだと思う。
私と同時期に同じ携帯を買った友人も、未だに使っている。
「いつまで電池もつかな?」
と言っていたのがかれこれ1年以上前。
機能で困ることもそう多くないので、今もそのままだ。


新しい技術が発達すれば、当然のように人はそれを応用・利用するだろうし、それが悪いことだとは思わない。
そもそも、今私が生活しているこの社会だって、そういった発展を繰り返してきた結果あるものなのだから。
進歩を否定するなら、私は今の生活をも否定しなくてはならない。
携帯の新旧どころか、携帯そのものだってないのだ。
ゆえに、この古い携帯が仮に頑丈だとしても、「それがどうした」と終わらせようと思えばそれは容易だ。


技術の良し悪しを判断する間もなく、次から次へと新しいものが出てくる社会。
出てくる、といっても、人間の恣意的な活動に拠るものなのだからやや表現はおかしいかもしれない。
しかしそれでも敢えて「出てくる」と表現したいくらいのスピード。
目まぐるしく、何もかもが変わっていく。
この弛まず先へ進み続けるこの社会を見て、危機感を覚えないはずはなく、だから携帯を例としたことも、単に私自身の覚える技術に対する猜疑的感情を表現するのに、今偶然手元にあった材料にすぎない。
技術を今のところ否定も非難もする気はないが、怖くはある。


雨後の竹の子と言っては研究職に従事する人々に対して失礼に当たるのだろうか。
ただ、そう感じてしまわざるをえないほど、何がいつどう変わって、どこがどう違うのかさえ私には分からない。
「素人では分からない」ものが、あらゆる分野においてスタンダードとして用いられていくのならば、世の中は誰の目にも見えないところ、あるいは空中にでも浮いているかのようだ。
遺伝子分野での発展に社会の倫理面が追いつかないのと同様のことが、あちらこちらで起こり始めているのだろうか。


とある会社のHPに載せられている文章を読んだ。
より便利な社会を創っていくため、技術的貢献を図ることを目指すという。
しかし、どこからどこまでが便利と言えるのだろう。
スーパーにいながらにして冷蔵庫の中身が分かるといったことを、どれだけの人が必要としているのか。
手塚治虫氏の描いた鉄腕アトムは、本来作者の科学技術発展に対する警鐘だったというのは有名な話だが、本当に未来が彼の危惧したようなものとなったらどうなるだろう。
分からないが、人間自身の居場所すらなくしてしまうような「進歩」を私は望まない。
例えば完全な統制がなされた社会は、確かに安全かもしれないし便利かもしれない。
だからといって、それがよいかというと話は別なのではないか。


多くの執筆家が半ば冗談めいてロボットに支配される未来社会を描いていたりもするが、そのうちの何割かはネタではなくて本気で心配しているのかもしれない。
私の場合、携帯電話1つから考えが飛躍しすぎなのだろうか。
ただ、往々にして何かに夢中の人間というのは周りが見えないものだから、技術開発に携わる人からそれを利用する人までの全てを含め、気づかぬうちに恐ろしいことをしてしまっている可能性があることが怖い。
杞憂ならば、それはそれでいい。
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