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| 2010年02月26日(金) チョットアソコノアレ。 |
| もちろん翌日妻は仕事を休み、病院へ行った。僕は仕事なので病院へ行った。「メールするからね」胃腸の中身が全て空になっても未だ嘔気が続く妻は、そう弱々しく呟いて玄関先で小さく手を振った。 4年前の2月を思い出す。あの時はまだ結婚もしていなかった。夜勤明けで彼女のマンションに行き、いつものように昼寝をしていた。起きたら彼女と夕食でも食べに行こう。そんな独身生活。将来のことなんて、別段真剣に考えていなかった。結婚なんて僕以外の誰かの話でしかなかった。 「……ねぇ、ねぇって」 誰かが僕を昼寝から起こすなんて珍しい。今でもそうだけど、僕は一度寝てしまったら自分の意思で起きることすら難しい人間で、人から起こされてスムーズに目が覚めたことがない。 「ねぇ、ちょっと、あそこのさ、あれ見てきて」 昼寝から起こされて、チョットアソコノアレミテキテと呪文のようなことを言われて、夢かとも思ったけれど、夢に出てくる彼女はこんな真剣な表情をしていない。僕はなんとか起き上がって、チョットアソコノアレを見に彼女が指すキッチンのテーブルへ行った。 キッチンのテーブルのチョットアソコノアレは体温計のような形をしていて、終了と書いてある小さな丸い窪みに赤紫のラインが浮かんでいて、その隣の判定と書いてある小さな窪みにも赤紫のラインが浮かんでいた。 寝ぼけまなこに映る、二つならんだ丸い窪みに浮かぶ二本の赤紫のラインは、とても鮮やかで、僕の動向を観察する瞳のように静かに僕を見つめていた。 それは、彼氏と彼女から、父親と母親になった瞬間だった。 先ほどまで独身の僕が寝ていたベッドに座る彼女の元に行き、即興のプロポーズをした。何でもない日の何の予定もない午後の、たった数分間で、僕たちは彼氏と彼女から父親と母親になって、それから、夫と妻になった。 「まだすごく小さいみたいだけど、赤ちゃんできました」 4年後の2月。嘔吐を繰り返す妻は、チョットアソコノアレの赤紫の瞳を確認してから産婦人科へ行った。残業せずに仕事を切り上げ、全力で自転車をこいで家へ帰った。お祝いのケーキでも買いたかったけれど、つわりが治まるまでは我慢しよう。 御ハナ。御ハナはお姉ちゃんになるんだよ。 御ハナにそう言ってから、僕は妻を抱き締めた。きょとんと見上げていた御ハナは「ハナもー」と、抱き合う2人の足に抱きついてきて、3人で笑った。 多分、チョットアソコノアレの赤紫の瞳も、優しく笑っていたと思う。 |
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