READY!STEADY!どっこいしょ!...刈田

 

 

現代美術とアーティストのオナニズム - 2004年09月14日(火)

先日、知り合いのヘア&メイクの集団が、
西麻布の箱でイベント行うというので少し顔を出してきた。
ボクは基本的に品性下劣な文章を書くことを生業としているが、
時々マジメな仕事もするため、今回のようなパーティーに、
顔を出さなければならないこともある。
だがボクの性格をご存知の方ならおわかりのとおり、
刈田はこのような催しを十分に楽しめるタイプではない。
アートチックなたたずまいが、あまり好きでないのである。
いや正確に言うならば、アートチックなことをやっている人々の、
物言いが嫌いなのだ。

ボクは幼い頃から美術に関心があった。
美術史などの学問的なことはわからなかったが、絵は得意だった。
絵画や彫金で県から表彰されたこともある。
中学生の頃はサルバドール・ダリやH・R・ギーガーなどの
シュールレアリストにかぶれ、教師を騙し、
彼らの画集を図書館に入れさせたこともあった。
その頃はまだ何も実体を知らなかった。

ちょうど20歳前後の頃だろうか、
学校の講師に現代美術をやっている方がいた。
授業で作った作品が評価されたこともあって、
彼に銀座の画廊を連れまわされるようになった。
そこは完全な異世界であった。
主催のアーティストがワイン片手に、
「今回のコンセプトは何か?」
「アートとは何か?」
「表現するということはどういうことか?」
などと流暢に語っていたのである。
彼らアーティストは文字通り表現者である。
絵や彫刻、オブジェなど、
語りたいことの多くは作品の中にあるはずだ。
なのになぜ、彼らは言葉でアートを語るのか?
確かに現代美術の世界はコンセプチャルなものかもしれない。
コンセプトがなければ、それはただのガラクタに過ぎないのかもしれない。
主催者は喋りながら、そこにある作品が「アートである」という言い訳を、
必死に探しているように思えた。
それは、どんな会場に行っても同じだった。
どんなジャンルでもそうだった。
自称アートの人々の多くは、作品で語ろうとはしない。
そんなに語りたければ、物書きになればいいのに。

ラスコーの洞窟に絵を描いたクロマニヨン人たちは、
どんな気持ちであれを描いたのだろう。
もちろん、コンセプトなどあるわけがない。
そこにあったのは、
「今日起こった出来事を記録しておきたい」
「絵が上手いのを自慢したい」
その程度の気持ちではないか?
だが、それが表現の根本的衝動であるように思う。
芸術衝動の本質はいたってシンプルなのである。
「チンポが立ったからオナニーする」
それとまったく同じだ。


...




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