極私的・富野論 劇場版『機動戦士Zガンダム-星を継ぐ者-』によせて - 2004年05月16日(日) 僕が尊敬している富野由悠季監督は、 一貫して人の業(ごう)を描いてきた映像作家である。 それが如実に読み取れるのが、 「伝説巨人イデオン 接触編・発動編」と 「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」の2作品だ。 「イデオン」は正しい生命体=人間とは何か?を問う作品である。 ストーリーを要約すると、こうだ。 “イデ”という名の宇宙意志(神?)の導きにより、 地球人と異星人の接触=戦闘がはじまった。 その最中、異星人司令官の娘と地球人の男が恋におち、子を身ごもる。 それを知った異星の司令官は怒り狂い、最後の戦闘をしかけた。 結果、地球人と異星人は滅亡することとなり、 地球人と異星人の子・メシアが、人々の魂を新たな星へといざなう…。 つまり、ここで富野監督が言いたかったのは、 すべての争いは人間の個人的な怨恨に根ざしている。 そして馬鹿は死ななきゃ治らない、ということだ。 その後、富野監督は「ザブングル」でヒロインを盲目にさせ、 「ダンバイン」ですべてのキャラクターを全滅させ、 「エルガイム」で親子の対立を描いてお茶を濁した後、 「Zガンダム」では主人公を狂わせ、 「ZZガンダム」では主人公を木星圏=地球圏外=あの世?=逃避させた。 監督の性急さは、留まるところを知らなかった。 まさしく「皆殺しの富野」の面目躍如である。 そして1988年、監督が世に問うたのが「逆襲のシャア」である。 本作は「機動戦士ガンダム」シリーズの完結を目指し作られた作品だ。 地球連邦の政策に業を煮やしたシャアは、 地球に隕石を落として、地上の人類の抹殺を企てる。 そのためには手段を選ばない。 参謀の女を利用し、戦闘能力の高い少女を騙し陣営に加え、戦いを有利に進める。 憎悪すべき存在であるはずの地球連邦の官僚とも平気で手を組む。 だがこれらの行動は、地球環境の死守といった崇高な目的からではない。 すべては好敵手アムロを引っ張り出すために行われたものなのである。 戦いの仕上げとして、シャアは巨大隕石アクシズを地球に落下させようとする。 当然、「イデオン」の時のように、人類滅亡の4文字が浮かぶ。 だが、アクシズは地球に落下しなかった。人類は救われた。 それはサイコフレームが発現したからだ。 サイコフレームはパイロットとモビルスーツの追随性を上げるための装置。 人の意志を増幅し、機械に伝えるユニットである。 それが思いも寄らぬ効果をもたらした。 アムロの地球を守りたいという思いが、サイコフレームによって増幅され、 多くの人に伝わり、隕石落下が阻止されたのだ。 シャアはこのとき、「これはナンセンスだ」と吐き捨てるように言うが、 サイコフレームをアムロに提供したのは、他でもないシャア自身なのである。 僕はここにシャアの優しさ、いや、富野監督の思いを感じとってしまう。 もし「逆シャア」が「イデオン」の頃に作られていたら、 少なくとも「ダンバイン」の頃に作られていたら、 隕石は地球に落下し、地球上の人類は滅亡していたのではないか? 宇宙空間でシャアとアムロの決着をつけたのではないか? そして本当の敵を倒したのではないか? 「小説版ガンダム」などを見ると、 そういうベクトルに向いていてもおかしくないのである。 だが、そうはならなかった。 馬鹿は死ななくとも治ったのだ。 この時期、富野監督が心を害していたことはファンなら承知の通りである。 後に監督はサイコフレームを「あれこそ×××患者の発想の賜物で」 と言い捨てたのは有名な話である。 サイコフレームとは、いわば×××剤の暗喩なのかもしれない。 「これほど心が穏やかになるのであれば、人の業も欲も、 それに端を発する争いや戦争も、すべて回避できるかも…」 そう思案する監督の後姿が脳裏をよぎる。 この数年後、富野監督が選挙に出ようとしたのは、 これまたファンの間では有名な話である。 このときの選挙公約が、これだった。 「缶ジュースの自動販売機を全面廃止する」 さらにオウム真理教のサリン攻撃が、 ジオン軍の毒ガス攻撃に着想を得たとのことから、こう語った。 「全責任は我々にあります、自分のせいです」 とにかく、この頃の監督は自らシャアに、いや、人身御供になるほかない、 と考えていたのかもしれない。 「逆シャア」以降の富野作品は、誤解を恐れずに言ってしまうと、 ご本人言うところの「死に体」であったように思う。 「ガンダムF91」「Vガンダム」「ターンAガンダム」の主人公たちは、 やけに品行方正で、サイコフレームの影響が出ているように思える。 もちろん、彼らも魅力的なキャラクターではあったが、 若輩者の僕には彼らに人間としての熱さ・臭さが感じられなかった。 だが、今のところの最新作である「キングゲイナー」(02年) の主人公は熱かった。本当に熱かった。見ていてむかついたほどだ。 このほうが人間らしいし、フィルムの中でちゃんと生きている、 と実感できたのは僕だけではあるまい。 そして、それは富野監督の完全復活を表しているように思えた。 来年、「機動戦士Zガンダム」の劇場版、 『機動戦士Zガンダム-星を継ぐ者-』が公開されることになっている。 総監督は、当然、富野由悠季だ。 http://www.z-gundam.net/ http://char.2log.net/archives/blog52.html もちろん玩具メーカーや代理店の肝いりがあるのは明白だが、 それを富野監督が受けたことが重要である。 「サイコフレーム」や「バイストンウェル」を選ばず、 「エウーゴとティターンズ」を選んだところがポイントだ。 なぜなら、今この時代に「Z」をやることは、 非常に意義のあることだと思えるからだ。 「Z」は時代の変革をまっこうから描いた作品である。 そこに描かれている政治体制、戦争、世代の対決、 さらにバイオ技術や人の倫理観といったものは、 現在の2000年代の世界を鏡で写したかのようだ。 国連の情けなさはまるで地球連邦だし、 アメリカ陣営はティターンズそのままの行動を取っている。 イラクの制圧や人質リンチを見ると、 本作における30バンチ事件思い出さずにはいられない。 監督も間違いなく、それらを意識しているに違いない。 決して、ただのリメイクや総集編ではない。 Zは刻をこえて生きていたのである。 そう、刻をこえて生きていると。君は! と富野調にシメてみました。 ...
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