日々のあわ
あかり 



 過去の私の続き。


「全ての道はXに向かう。だが・・・・」
「死への本能と子宮の暗闇への退行。」
「我が心また新しく泣かんとす。」
「すべて濁った水の罪・・・・・」


え、えっと・・・・・。
これなんだと思います?



昨日母から電話がきた。
「これはちょっと捨てられないと思ったから、あなたの大学時代のノートを宅急便で送ったからねー」
と。
はい。そうです。
↑の何やらワケノワカラン走り書きは、1990年に私が書いたノートの一部です。

本当に、わけがわかりません。今の私にはいったいなにがなにやら・・・(笑)

だけどやっぱり笑い飛ばすことはできませんでした。
かなり愛しかったです。
吐くほど思考して暗中模索していた時代に吸収して消化して身につけたものたち。

そうそう、一つだけ、「あははー。私って変わってないなぁー」と自分で思ったものがありました。
卒論の後書きかなにかの文章です。


『歓喜の声と騒音が渦を巻く 人ごみの中の
ぽっかりあいた落とし穴に 片足を半分入れながら
その日その日をやっとの思いで過ごしているとして。

特に考えているわけでもないのに
気がつくといつも
辛いような気持ちになっているとする。

それでも私は、
諦めてすとんと穴に落ちるほどの勇気も無く
そんな穴を見ることもなしに歩いていく器用さもない。

中途半端な私のようなものが
心地よく生きてゆくために、
欠かすことのできないもの。
それは本当に平凡な、
日常生活の中に
ころころと転がっている。

電車に乗れば 窓から見える多摩川は 
あいも変わらずのんびりと 穏やかに流れ、
川辺では老人が釣り糸を落としている。
鶴見川の堤防には
誰が描いたか知らないが、
上手なサザエさん一家の落書きがあり、
何度観ても笑いそうになる。
ちょっと前まで、毎朝電車に向かって旗を振っているおじさんがいた。
春になれば線路の脇に 菜の花が咲く。

道に転がる“痛”や“苦”を 必要以上に感じ
幾度も幾度も躓いて がんじがらめになっている者は
“快”も“喜”も これとまた紙一重であることを 知ればいい。

何気ない、心をなごませるものに
いちいち気をとめることのできる人。
そんな贅沢な時間を生きる人でいたい。』


とても稚拙な文章に、弱弱しい私の姿が思い出される。
「そうだよなッ!わかる、わかるよその気持ち」
そう言って14年前の私の肩をポンポンと叩いてやりたい。
こんなに身も心もたくましくなった私がにっこり笑って。


あ、「我が心また新しく泣かんとす」は朔太郎ですね。
3時間かかって思い出しました(笑)





2004年06月02日(水)
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