窓のそと(Diary by 久野那美)

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2012年12月11日(火) ちゃぶだいとしろくま。


舞台にちゃぶ台があると、嫌な予感がするな・・と思ってた時期がある。
ちゃぶだいが「暗黙の了解」の象徴のように見えたからだ。

舞台中央にちゃぶだい。
誰かが座っている。テレビを見てたり。
「新聞とって。」とか誰かが誰かに言う。
「おはよう。」誰かが入ってくる。

これだけで、このひとたちが同じ家に住んでいて、
おそらく血縁関係があって、今は朝で、みんなが起きてきて、
ここは居間で、食事が始まろうとしていて、毎日同じような時間を
すごしている・・・というようなことがわかることになっている。
誰も何も説明しなくても。

これがちゃぶ台の力だ。

舞台にちゃぶだいがあるのに、以上のことが分からなかったら、おそらく
このあとに続く諸々の出来事についていくことができない。

これがちゃぶだいの力であることは、このちゃぶ台をたとえばしろくまに替えてみれば
すぐにわかる。

舞台中央にしろくま。
誰かが座っている。
この時点ですでに、すわっているのか、じっとしているのか、しゃがんでいるのか、
隠れているのか、なんらかの説明が必要になる。

しろくまの横にテレビがあることにも説明がいる。
そもそも、それがテレビであることがわかるために何らかの説明がいる。
しろくまの隣にある四角い箱がニュースやドラマを放送していること、
に対するなんらかの説明がいる。

しろくまの居るこの場所はどこなのか、
最初に座っているひとは誰で、「おはよう」と入ってきたひととどんな関係があるのか。

登場人物の間に暗黙の了解があるのは仕方がない。そのひとたちは、舞台が始まる前からそこでそうやって生きてるのだから。

でも、客席と舞台との間に暗黙の了解があることに納得がいかない。
しかもそれは、「ちゃぶだい」的価値観を共有している人だけがもつことのできる了解なのだ。


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暗黙の了解、について、たまたま昨日、人と話す機会があって。
ふと思い出したので書いてみました。ちゃぶだいのこと。


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