| 2004年12月30日(木) |
イタリア旅行記その2 |
バチカン市国 バチカン美術館とサンピエトロ寺院
パパが、よし、今回の旅行はローマに行くぞ! と言ったとき、私はローマ遺跡の観光めぐりはまぁどうでもいいかな……と思ったけど、このバチカン市国だけは絶対に行ってみたいと思った。
私たち、十数年もの間、キリスト教の国々で暮らしてきた。 現地生活の文化、風習、祭日はほとんどキリスト教に基づいているので、例え異教徒であっても、それをごく普通の日常生活として違和感なく受け入れている。
でも、キリスト教圏で暮らしているといっても、私は聖書をいまひとつ正確に理解していない。ガイドブックに載っているあらすじ程度で、一度も真剣に読んだこともない。神道という宗教家で育ったということも関係があるかもしれない。ヨーロッパ文化という以前に、異教だということを意識しすぎて、聖書に取り組むには胸のうちで何らかの抵抗があったのかもしれない。
ヨーロッパ人は子供の頃から、授業で、旧約聖書や新約聖書について勉強している。聖書にもいろんな話や教えがあるだろうけれど、子供の頃から、絵本や読書などで、ごく自然に聖書の教えが身についていくものなのかもしれない。
隣で画を見入っている背の高い欧州人たちは、宗教絵画や壁画を観れば、それが何を意味することか、解釈しながら見ているのだろうなと思いながら、私はわずかな断片的な知識をつなげてただぼんやりと絵を眺めていた。
実のところ、わたしには、それが聖書のなんとか伝のワンシーンだということはわかっていても、それがそのように絵画的に表現されているのだという具体的なストーリーまでは理解できていなかったのだ。
カトリックの総本山にきて、宗教画を深く理解できていない私などには、画を鑑賞する資格などないに等しいのではないかと思いながら、なんとももどかしい思いで、バチカン美術館の中を歩いた。
バチカン市国のサン・ピエトロ寺院というところは、カトリック信者には憧れの土地であるだろうし、ローマ法王同様、カトリック教のシンボルである。いうまでもなく、敬虔で神聖なところである。
町全体が世界遺産であり観光名所であるから、世界中から観光客が訪れるのかもしれないけれど、サンピエトロ寺院・バチカン美術館ともに、こんな異教徒が、観光目的の不本意な心もちで立入ってはいけないところなんじゃないんだろうかと思わせるほどの凄みがあった。
今回、詳しいガイドブックを買ってきたので、それでゆっくりおさらいをしてみる。実際に訪れているので、写真を見ても説明を読んでも今までとは違って理解の深さが違う。バチカンについてさらに理解を深めることができたときに、改めて神聖な心もちで、もう一度訪れたいと思う。
それから、私が気になったこと。
サンピエトロ寺院は、そのときの歴代教皇の采配で改増築されて、そのたびに姿を変えている。今のヨハネパウロ二世の代でも寺院になにがしか施されているのだろう。
特に私が気になったのは、バチカン美術館の玄関が、近年、近代的に改装されたということだった。玄関だけではなく、そこもかしこも手の加えられる限りのいたるところである。ホールに新しいモニュメントまである。
いかにも観光客に見せるため、商業主義的に改装されているようで、いい気がしなかった。古いままのほうが歴史を感じ取りやすいし、古いひび割れ一つにも絶対に有難味があると私は思うからだ。
システィーナ礼拝堂の「最後の審判」に至っては、日テレがスポンサーになって、今までの埃やろうそくの汚れを落として画をきれいにクリーニングしたそうだ。その結果、今では当時と同じような鮮明な色彩のフレスコ画を見ることができるようになった。勿論、いうまでもなく立派な画だったけど。
ミケランジェロの時代の色彩がこの現代で、きれいに再現されたのは、作品保護のために必要不可欠で、近代技術の偉業なのかもしれないけど、そんな時代物の芸術作品に施された人工的な新しさに、私は、いささかうんざりしてしまったのだ。
ちょっと例えが違うかもしれないけど。 例えば、あるところに、つたが壁面一面に絡まった古い立派な建築物があったとする。建築された当初は、つたもなくレンガがきれいに見えていた状態だっただろう。だからといって、後になって、建物の表面を覆っているつたを全部刈り取って当時を再現してしまったら、どうなることだろうか? きっと建物の表面的は、髭剃り後みたいにきれいさっぱりすることだろう。 でも、長年かけてその建物を覆ってきたつたは、建物の一部としてみなされて重宝されていたはずだ。つたで一面覆われていることによって、その建物が古くから存在するありがたみを示すことができるものだろうし。
建物のつたと、ラファエロのフレスコ画の汚れは、全く違うかもしれない。けれども、私は、新しさ、きれいさだけに目を向けるのではなく、汚れ一つ、ひび割れ一つに、時間の蓄積に価値を見出したり、時間の流れを尊重したりするのはいけないことなのだろうかと浅はかな頭で考えていたのだ。由緒や歴史の価値の本質は同じではないだろうか。
私は、近代的な面構えの美術館の中で独りよがりなことをしきりに思ったのだった。
テレビを見ながら書いてるので、思った通りには書ききれていないけど、もう一言。 システィーナ礼拝堂の「最後の審判」(怒りの日)ラファエロ作
キリストから審判を下される人々。
天に昇る人々。 地獄に引っ張られる人。 神・キリストの采配で、その人の運命に審判が下される。 運命論を語るといやな顔をする人がいるけれど、私はかなり強く運命というものを信じている。
私は壁一面の絵を見ながら、津波災害のことを思った。 全く無事だった人、被害にあった人、犠牲になった人。 ただし、被害にあった人が悪いことをした人だったという意味ではない。 でも、あれも一種の運命の分かれ道だったのだと思う。 ドイツ人で無傷の生存者カップルがいた。 丘の上の教会を訪ねてきていて、津波の被害は免れたそうだ。 その二人にとって、それが運命の分かれ道だったのだと私は思った。
自然現象は神様が起こしたわけではない。 でもそこで生死を分けさせたのは、やはり神様の仕業だったのかもしれないなとも思う。
そう思うと、この画が示唆する「運命」の分かれ道について、深く考えさせられるのだ。
|