2009年09月09日(水)  エッセイの文体とはその人自身なのではないか

女流作家の桜庭一樹さんが新聞の対談で「一日一冊読む」とさらりと語られていて、ともすれば週に一冊も読めないわが身を反省した。少し仕事が落ち着いたので、この3日愛で3冊読んでみる。まずは『きりこについて』(西加奈子)と『カツラ美容室別室』(山崎ナオコーラ)を続けて。どちらも書評で目をつけていて、二人ともそれぞれ気になる作家さん。西さんは『きいろいゾウ』はとてもすんなりと入り込める作品だったし、山崎さんが新聞の日曜版に連載していたエッセイ「指先からソーダ」(同タイトルで単行本になっている)を毎週楽しみにしていた。そんな二人が旅行に行くほどの仲良しだと先日美容院で読んだFIGAROの読書特集で知り、続けて読んでみたのだった。淡々とした文体の底に流れるあったかいものや比喩の面白さに、二人が親しくなった接点があるのかなと想像したりした。

西さんは何と言っても擬態語擬音語を駆使した大阪弁のリズムが心地よく、全体は大阪弁で書かれているわけではなく時々紛れ込むのだけど、わたしは自然と大阪弁に翻訳して読んでいて、体に文章がしみこんでくる。物語の中で発揮されるたくましい想像力がとても好ましく、読み物としても楽しい。ヒロインである「ぶす」のきりこの顔を頭に思い描きながら読み、この作品は映像化は難しいだろうし、しても映画のきりこは小説ほど愛されないだるなと思った。とてもぶすだけど愛せるヒロインを成立させるのは読者一人一人の補正作業あるいは補強作業が必要で、そのきりこは一人一人の頭の中にしか存在せず、最大公約数的なきりこは誰からも愛されないだろうという気がする。でも、もしも観客一人一人の補正・補強作業を可能にする余地を残した、それこそ小説の中の言葉にあるように「奇跡」の顔の持ち主をキャスティングできたら、劇場で観てみたい。その奇跡を共有するという体験に思いを馳せて、わくわくした。

ナオコーラ(英語で表記するとnao-cola)さんの小説を読むのは初めて。エッセイと同じく簡潔で無駄がない、けれど鋭く心に残る文章を積み重ねながら、この人にしか作れない世界を形作っている。とくに大きな事件は起こらず、けれど登場人物たちにとっては一日の数時間あるいは一週間の数日を止めるような出来事がいくつか起こり、人間関係が少しずつスライドしながら組み変わって行くさまが興味深い。見落としそうな日常のささいなことの愛おしさをすくいとるのがとてもうまい人だと思う。

そして、今日は『手紙』(東野圭吾)を読んだ。『天使の卵』と同じ頃に沢尻エリカさん出演で映画化されていた作品だけど、映画にも小説にもまだ触れていなかった。同じ作者の『秘密』にも唸らされたけれど、本当に構成がお見事。東野さんの作品が次々と映像化されるのがよくわかる。切り取って絵になる場面、鮮やかで劇的な展開、ラストに用意されている驚き点点脚本家が映像化にあたって苦労して膨らませるところを小説が先に提示してくれている。

『手紙』の素晴らしさは、手紙を出す側の気持ちと受ける側の気持ちの温度差の変化がドラマになっていること。返事を待つ身の切なさ、見たくない手紙を破り捨てる心の痛み、そのどちらにも気持ちが加担でき、きりきりと胸を締めつけられる。強盗殺人犯の兄を抱えてしまったことで人生を狂わされる弟を追いかけてくる手紙の重みは、読み手の肩にものしかかるような重苦しさを実感させる。どうして文字を追いかけるだけで、こんなに息苦しくなるのか。読者に鏡を突きつける小説だと解く井上夢人さんの解説もすばらしい。打ち合わせへの移動の車中で読み始め、打ち合わせが終わって近くの紅茶専門店のカウンターで続きを読み、残りの数十ページを帰りの電車で読み切った。本はどこへでも連れて行けて、どこへでも連れて行ってくれる、本当にその通り。

三者三様の小説を読み、作家が違えば文体が違うということに、あらためて感じ入った。それは声や間の取り方や話の運び方が違うように「呼吸」のようなもので、真似されたり交じり合ったりしないものなのだろうなと思った。

ちょうど今日の打ち合わせは、新しいエッセイ連載の編集者との顔合わせだった。「FAXでいただいた原稿をこちらで推敲し、打ち込んで確認します」というやり方にわたしは戸惑い、議論になった。こちらとしては素材ではなく完成原稿をお渡しするつもりだし、指定された文字数で納めるので、最初から推敲、編集する前提でいられると困りますと訴えた。「無駄な表現は省き、わかりにくい言葉はカッコ付きで説明を加えたい」という趣旨のことを言われたので、「そのように指示していただければ自分で再考して修正しますが、勝手に手を加えられると文体が崩れます」と食い下がった。

こちらがFAXで送った原稿を編集者が打ち直すということにも抵抗があった。メールでの受け渡しではないので必要な作業なのだが、それによって編集者の頭が整理される利点もあると言う。打ち直すと、確かに、こうすればもっといい文章になるという方向性が見えるのは確かだが、それで手直しをすると、編集者の文章になってしまうのではないか。

そもそもどうしてメールを使わないのかという議論も交じって話は堂々巡りしたのだけど、突き詰めると「自分の文体へのこだわり」の違いなのかなと重い至った。「原稿を送りますから適当に編集してください」とおまかせされる方は、この編集者のやり方には何の違和感も覚えないし、「これでどうだという原稿を送るので、よっぽどのことがない限り尊重していただきたい」と主張するわたしには、原稿を一から打ち直されること自体に抵抗を覚える。

一言一句変えてくれるなということではなく、書き手の文体を尊重して欲しいのだということをただわかって欲しかったのだ。脚本にももちろん文体はあるのだけど、それは撮影のための設計図としての使命を担うから、より使い勝手のいいように直される宿命を負っている。けれど、エッセイは書き手の内面が文章に映し出されたものであり、その文体は小説以上に書き手自身を現しているとわたしは思う。だから、いじることが前提と言われると、聖域を侵されるような気がして、ムキになった。それだけのことだけど、千疋屋フルーツパーラーに不似合いな熱さで言い募り、編集者を閉口させてしまった。

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