2004年10月23日(土)  SLに乗ったり地震に遭ったり

鉄道と映画を愛するご近所仲間のT氏より「日帰り旅行」の提案。ほいほいと手を挙げ、「どこに何を食べに行くんですか」と聞くと、「ひたすら鉄道に乗ります」と渡された計画表には集合時間から解散時間までに乗る6本の列車の乗り継ぎ表。乗り換え時間以外は列車に揺られ続ける旅なのだった。「今日は年に一度の只見デーなんです」と言うT氏の恒例行事につきあって、お目当ての記念列車「SL会津只見号」をメインディッシュに前菜からデザートまで鉄道尽くしのコース。

まずは9:22上野発上越新幹線とき349号に92分揺られて新潟県浦佐駅へ。駅弁とおつまみとお酒を買って上越線下り普通で2駅先の小出駅に到着(距離8.3km 所要時間9分)。乗り換えで40分ほど時間があいたので駅周辺を散歩し、小出駅から46.8km先の只見駅までは80分かけてディーゼル車で行く。ボックス座席ではないので、横一列に並んで、紅葉のはじまりかけた山をおかずに駅弁とお酒を楽しむ。

入広瀬駅で停車したとき、「あの人いつも立っているんだよなあ」とT氏が窓の外を見て言う。「山菜共和国」の看板を掲げた駅舎前にたたずむ男性。委託駅員さんではないかとのこと。列車が動きだした瞬間、その人が車両に向かって頭を下げた。じーんとなる光景だった。大白川駅でタブレット交換。タブレットとは、単線の列車の衝突を防ぐための通行手形のようなもの。

只見駅に着くと、レトロなチョコレート色のSL車両がお待ちかね。朝9:07に会津若松を出て12:30に只見に着いた下りの会津只見号が、今度は会津若松に向かって折り返す。下り列車から乗り込み、酒盛りしていたT氏の鉄道仲間(通は片道だけでなく往復するのだ)と車内で合流。すでに皆さん酔っ払っていい感じ。「サボ(=サイドボード。行き先表示)と一緒に記念撮影だ!」「スカッ(=煙の出が悪いこと。逆は爆煙)だなあ」などとディープな鉄道用語が飛び交う。機関車の蒸気が窓につくと「曇った」と歓声を上げ、「煙が巻いてる」と言ってはしゃぎ、煙が目にしみては泣きながら喜び、灰が飛び込んだお酒を「シンダー(灰)入りだあ」とありがたがって飲む。合間には鉄道ファン掲示板の書き込みを携帯でチェック。こんな世界があるのか、とカルチャーショックだけど、実に面白い。

鉄道ファンと一口に言っても「撮り鉄」「乗り鉄」「模型鉄」など様々。乗り鉄のT氏に巻き込まれたわたしは、しいてジャンル分けするなら「食べ鉄」。停車駅には地元自慢のきのこ汁や粟まんじゅうの販売があり、食べ歩きならぬ食べ乗りを楽しめる。道連れの酒、地元の銘酒吉乃川もすっきり飲みやすくて気に入る。会津柳津駅では、白いスーツに「一日駅長」の襷をかけた柳津町長がホームでお見送り。只見号は地元の人たちに支えられて走っている。

ところで、この只見号には「支社長」と呼ばれる紳士夫妻が同乗していた。大宮駅からわたしたちと同じルートだったのだが、気づいて教えてくれたT氏によると、只見号企画を実現させたJR東日本の元・仙台支社長さんらしい。真岡鉄道に二台ある機関車の一台を借りて記念列車を走らせるという発想には反対の声もあったそうだが、それを乗り越えた情熱の人で、鉄道ファンの間では「神様」と呼ぶ声もあるのだとか。そのカリスマ性はJR関係者の間にも浸透しているようで、只見駅のホームでは「いらっしゃった」「どこ?」「一号車」という駅職員たちの興奮した声が飛び交っていた。一往復の記念列車にもドラマがある。

西若松駅で地元の役場勤務という方が合流。きのこ採りで遭難者が出て、「今頃○○辺り走ってるなあ」などと思いながら捜索に出ていたそうだが、無事見つかり、終着駅直前で追いついた。「西若松駅が鶴ヶ城前駅に名称変更されるかも」などと話すうちに会津若松に到着。あっという間の88.4km、193分。お酒とおしゃべりに酔い、車掌さんの美声と冴え渡る名調子にも酔いしれた。会津坂下の駅を離れたときの「万が一に備えてディーゼル車を待機させておりましたが、空振りに終わりました。このまま自力で走らせます」など、ユーモアのある語り口が微笑を誘っていた。「会津若松で一番いい声の車掌さん」という噂。「佐藤」と名乗られた気がしたが、いつかナレーションをお願いしたいくらい。

会津若松駅での待ち時間に、裏手にある機関区を見学。列車たちが体を休める車庫のことで、正式名称は会津若松運輸区だけど、「クラ(庫)」とも呼ばれるそう。ターンテーブルで回る機関車をはじめて見る。「去年乗ったSLばんえつ物語クリスマス号を牽引していた機関車ですよ」とT氏に教えられ、「こんなところで再会しましたね」とわたしもすっかり鉄モード。

会津若松で飲んでいくというT氏と鉄道仲間よりひと足早く17:31発のJR磐越西線の快速郡山行きに乗る。早起きしたので熟睡。ふと目が覚めると猪苗代駅、時刻は18:00。「17:56頃震度5の地震があり、運転を見合わせます」と車内放送がある。1時間経っても余震は続き、かなりグラグラ揺れる。外に出るよりは車内にいたほうが安全。

災難に遭ったからにはネタ銀行に預けるべし、と車内の様子を書きつける。後ろのボックスのおばさまたちは「カメラつき携帯電話の画素数」について熱心に話していた。携帯には暇つぶし機能と安心機能もあることを知る。誰かとつながっている感覚が心を落ち着かせる。予定時刻より3時間遅れて郡山駅に到着。64.6kmに230分、時速16.6km。森と水とロマンの鉄道、JR磐越西線を堪能(?)。その間に会津若松で飲んでいたT氏たちはバスで郡山へ向かい、わたしを追い越してしまった(急がば回れ!)が、約1時間待って郡山駅のホームで出迎えてくれたことに感激する。
17:31 会津若松駅を出発。
18:00 猪苗代駅で運転停止。「17:56に地震発生」のアナウンス。アナウンスの途中にも揺れ、「ただいまのが地震でございます」。
19:10 「線路点検にかかります」のアナウンス。徒歩のため時間がかかる。振替え輸送のバスも要請しているという。
19:48 再び大きな余震
19:50 「線路点検は中山宿と沼上信号所間の一区間を残すのみ」のアナウンス。 
19:55 T氏と鉄道仲間を乗せた会津若松発の民間バスが猪苗代を通過
20:08 「異常なし確認。間もなく出発」のアナウンス。
20:30 2時間半ぶりに運転再開。「各停、磐梯熱海までは35kmの徐行運転」。
20:55 しばらく停車。「磐梯熱海まで徐行運転の予定でしたが安全が確認できたので通常の速度に切り替え」。
21:20 郡山駅到着。

不思議だったのは、足止めを食らった車内で誰も文句を言っていなかったこと。東京の地下鉄が30分止まっただけで乗客が駅員につかみかかる光景を見ているので、この差はなんなんだろうと思っていた。「分厚い時刻表を持っている乗客が目についたので、その人たちは只見号帰りだと思うんですよ。でも、他のお客さんたちもどら焼きを分け合ったりして和やかでした」と快適な新幹線やまびこの中で話すと、「それはこのどら焼きですか」と真岡鉄道を応援しているM氏が大判のどら焼きを取り出した。朝の只見号で配られたものらしい。足止め号の乗客の大半は只見号帰りだったよう。移動「手段」ではなく、鉄道に乗っている「過程」を楽しむ人たちゆえ、トラブルを柔軟に受け止める余裕があったのかもしれない。閉じ込められていた150分も含めて、一日で690分も電車に乗っていたのは新記録。いろんな意味で忘れられない鉄道旅となった。

自宅に戻ってニュースを見ると、震度6の新潟は予想以上の被害。親しみを覚えたばかりの地名が被害に遭っていることを知る。今朝通ってきた風景を思い返しながら、あの辺りは大丈夫だろうか、あの人は無事だろうかと案じている。

2000年10月23日(月)  パコダテ人P面日記 誕生秘話

<<<前の日記  次の日記>>>