NHKで午後一時過ぎからの『マティス 幸せ運ぶ色の旅人』を見ました。マティスは好きな画家のひとり。現在上野の西洋美術館で開催中の展覧会もぜひ見にいきたいと思っています。 マティスが現在よく知られている「マティス」として画壇にあらわれたのは今からじきに百年前の”野獣”=フォーヴの時代。凶暴なまでの色の激発。それから晩年の切り絵作品まで、色彩の画家と評価されていたと思います。わたしが好きなのも”Jazz”や「ダンス」で、前者は画集もすぐとりだせるところにあるしカレンダーを買って飾っていたこともあります。
でも、あたりまえといえばあたりまえなんだけどマティスは最初からわたしたちの知っている「マティス」であったわけじゃない。 生まれたのはフランス最北端のノール(Nordかな? 「北」)県。今日のテレビで紹介されていた当地のマティス美術館におさめられている絵は一様に抑えた色調で、むしろもの悲しい風景画のようでした。 そうなのかー。と思ったけど、番組のあとでマティスを中心に組まれた展覧会(コーン・コレクション)の図録をひっぱりだしてきたら、その暗い時代の作品もかなりあって、それなりに見てたのにさっぱり忘れていたことがわかりました。
じゃあマティスの色を変えたのは? それは南仏体験だったそうです。 ウィーンに行ってエゴン・シーレなどの作品を固めて見たときに、「ああ、このひとたちはこういう世界しか知らないんだ」と感慨を覚えたことを思いだしました。これもかなり前、Bunkamuraでパウル・クレー展をやったときにも、「南」体験以前はずいぶんと暗い色調の絵ばかりだったなと思ったものです。
1905年にマティスが妻子を連れてやってきたのは、南仏の漁師街。そこでマティスは、家々の壁すらも思い思いに塗られているのを見て、色の自由さ・自律性を発見したと紹介されていました。 でその壁がどうして色とりどりだったこというと、漁師たちが自分の船を塗ったペンキの余りで家も壁も塗ったから。という、言われてみればそりゃそーだ! な理由でした。でも楽しい。
七、八年まえにニースのマティス美術館とその郊外ヴァンスにあるロザリオ礼拝堂に行ったときのことなんかを思いだして、昨晩の雨のおかげか涼しい午後のひかりのなかうとうとして(横にはクロゾが貼りついてて)、なんだかいい気分でした。
ほんとうはメモをはじめたかったんだけど。イメージとか、スケッチ的なものだけでも。 クラピカの生まれ育った里は寒い山中にあった・・・・・・と勝手にイメージしていますが(とりあえず「奥地」だったことはウボォの口から明かされていますよね)、旅団がクルタさんたちを襲撃したときクラピカは結局なにをしていたんだろう。どうして助かったんだろう。ほんの十一、二歳のこどもだったはずだから外の世界を旅行してまわっていたというのもないかな。 とりあえず、その日まで一歩も(物理的には)村をでたことがなかったとしたら。回想のなかで手を振る子とふたり、外はどんなだろうね〇〇に行ってみたいねなんて話をずっとしていたんだったら。 きっと明るい南にあこがれていたと思う。 そしてたったひとり、その地で太陽に焼かれたときになにを思ったのかなあ・・・・・・なんて考えています。
それから光つながりで、せっかく秋だから月のことを。中秋の名月とか月見とかいうとあまりにも日本的だからもちこみかたが問題だけど。
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