un capodoglio d'avorio
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2004年09月19日(日) 野田秀樹「赤鬼 THAI version」

@シアターコクーン、マチネ。ホールの真ん中に正方形の白い舞台。四方に客席。どかはエリア指定席、しかも最前列。役者が手に触れられそうな距離にいる、っていうか向こうから触れてきた。客イジリしまくり(それで、むかしロンドンで観たミュージカル「CATS」を思い出した)。


今となってみれば、何を言えばいいのだろう。とにかく、これまで観た芝居の中で5本の指に入る舞台だった。野田サンの舞台で、どかが観たなかではまちがいなくベスト。「パンドラの鐘」よりも「贋作・桜の森の満開の下」よりも、そしてこれまでの野田作品のベストだった「カノン」よりも、これが良かった。


何を言えばいいのだろう。タイ、そう、野田サン以外はすべて、タイ人の役者。セリフもすべてタイ語。観客のほとんどは、同時通訳のイヤホンを耳につけて舞台を観る。どかも最初、右耳で聞くタイ語のセリフと左耳で聞く日本語の通訳、そして目で見るタイ人の動きとの間でどうしても「わたり」をつけにくくて困ったなーと思ったのだけれど、知らないうちに馴染んでいた。


まず、タイ語。きれい、とにかく、響きが美しい。こんなにきれいな言葉だったんだー、と思う。中国語もきれいだよねーと思ってたけど、こっちのが美しい。タイ人の役者達が村人役として歌うシーンがたくさんあるけれど、もう、コクーン全体がふわーっと非日常の青やオレンジに染められていく。イタリア語も抑揚が強くて歌うような言葉だけれど、あれがソリストみたいな響きだとすれば、タイ語はコーラスみたいな響き。習いたいなあ、いいなあ。


そして、表情。タイ人の役者の表情。「屈託のない」と言ってしまえばそれまでなんだけれど、それにしても引き込まれる、まっさらな感情がそこにあるみたいな。日本の役者の表情は、なんだったんだよ。と思っちゃうくらい、説得力があった。席が最前だったから、しょっちゅう役者と目が合うんだけど、目が合うたびに、なにかしらレスポンスをしてくれて、もう、嬉しくて仕方がない。垣根が無い。壁が無い。客席と舞台という物理的な壁を中和してしまうほどに、彼ら彼女らの感情の浸透力は高かった。汗をかいた後に飲むポカリスエットのように、目から身体全体に沁み渡る感情である。


そして、身体。あの美しい身振り。やはりどうしたって、身体には国民性が出る。それは物理的なサイズのことではなく、身振りの残像にもっとも顕著に、出る。タイの民俗舞踊に見える、あの優美でマニエリスティックな曲線、アールヌーボー調とすら言えるかも知れない指のしなり。その爪の先から背骨までが有機的にうねる一本のラインで結ばれるときに醸し出される動的な美。それはやはり日本の役者やイギリスの役者が出そうと思ってもなかなか難しいものなのだろうなと思う。しゃがんでいる姿勢からスッと立ち走り出すそれだけの身振りに、こういうしなりやうねりが満載なのだもの。しかもロンドンバージョン、日本バージョンと異なり、このバージョンの登場人物は14人もいる。これだけの大人数が、あの狭い舞台のなかであくまで「優美」にのたうちまわる。すばらしい、としか言えない。


そしてその中心キャスト。「とんび」役のナット・ヌアンペーンさんはその愛嬌のある容姿を生かしたとぼけた味わい、この脚本では狂言回しでもある大切な役をしっかり堅実に演じた。「あの女」役のドゥァンジャイ・ヒランスリさん。きれい。目がすっと切れて流れる美人。意志の強さを感じさせるうなじ。優しさよりも激しさ、脚本の要求するところをきちんとふまえて、赤鬼と対峙するときの緊張感を出せていた。すごいなー、こんな女優サンがいるんだなー。すっごい凛々しい、感情がグッと向いたときの集中度が、凡百の女優とは桁違い。ハイライトである裁判のシーンの彼女のまなざしは、気圧されるほどの迫力。そしてそして、どかが一番気に入りだったのは「水銀」役のプラディット・プラサートーンさん。上手すぎ。なんなんだ、あの抑揚とリズムは。憎めないゲス男の愛嬌と堕落を、うねりのたうつボンゴのリズムで体現しちゃう。・・・わからん、でもとにかく目を奪われる。きっと、芝居の受けが、このメンバーのなかでは断トツ出来ていたんだと思う。野田サンの舞台は、芝居を受けてるヒマがあったら叫んで走れっていう感じだから、けっこう流されがちなんだけれど、でも、実はやっぱり「受け」こそが大切なんだと思う。この水銀は、セリフのないところでも、「あの女」の憎悪をいちいち受けてから流し、「とんび」の莫迦をいちいち受けてから嘲り、そのことを最後まで貫いていたからこそ、観客はそこに定点を観る。そしてそこから舞台のハッピーエンドを探すのだ。野田サンの赤鬼は、いつも通り楽しそう。劇作家・演出家であることの強みと弱みが同居するたたずまいはいつも通り、けれどもきっとこのヒトはその弱みをちゃんと知っているから、何をしてもどかは許せる気がする。でも今回の赤鬼の、コミュニティの中における異物感を出していたのは、彼の演技ではなく彼の衣装だったと思う。


3バージョン全てで、もちろん衣装は異なるのだけれど、タイバージョンが優れているのは衣装の点でもそうだ。野田サン演じる赤鬼の衣装は、これがまたすごかった。異物感バリバリ。でも、それは不快感からは紙一重で逃れているところが如才ない。ストーリーの肝をきちんと踏まえたうえでのデザイン、良かった。


ストーリーは野田サンの作品にしてはきわめてシンプルだと思う。ひとつのコミュニティに異人が入ってきたときの群集心理。まず驚愕し、そして拒絶し、いったんは利用し、けっきょく排除する。そういうフェーズの移行を突き動かしていく、ヒトが発する言葉というもの、その連鎖反応。このあたりのことがテーマのひとつなんだろうと思う。


もしくはこうも言える。「ヒトとオニのあいだって?」ということ。イタリア現代思想の第一人者、ジョルジョ・アガンベンが「ヒトと動物のあいだ」について現象学的につきつめた精華を残したとすれば、野田秀樹は「ヒトとオニのあいだ」について叙情的につきつめたのだろう。そして野田サンが徹底的に優れているのは、「ヒトとオニの境界線」というのは実は、ヒトの外にあるのではなく、ヒトの中にしか無いということ。この厳然たる事実を、美しいラストシーンに結実させたその一点にある。


美しいラストシーン、「あの女」が衝撃的な事実を理解した瞬間のあの慟哭の眼差し。あの眼差しが吸い込まれていくコクーンのホール、虚空の闇こそが、その事実の証人である。野田サンの戯曲としては小品に属するものかも知れないけれど、でもどかは、この作品こそが最高傑作であると思う。


そして、3バージョンのなかでは、タイバージョンこそがきっとベスト。どかは日本バージョンは観られないわけだけれど、ロンドンバージョンは以前録画で観たのでなんとなく実際のそれを想像できる。どれほどプラス方向に修正を加えたところで、あのタイ語の響きとタイ人の表情、タイ人の身体を超えることは難しいと思われる。そしてこれだけのタイという風土の説得力をもってしてこそ、この絶望以上の絶望を、孤独以上の孤独を支えきれることができたのだろう。チケット獲りのとき、とっさにタイバージョンを選んだ自分の直感がちょっと誇りである。この舞台は、心底、すばらしかった。


こういう舞台と出会ってしまうから、まだどかは観劇ライフを打ち切りできない。回数さえ分からなくなるほどのカーテンコールを繰り返しつつ、タイの役者サンたちと目があって微笑みあって自分の気持ちを伝えるなかで、ぽやーっとそんなことを思っていたどかだった。


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