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2004年03月15日(月) 野島伸司「プライド」第10話

第9話で登場人物たちが突き落とされた奈落というのは、案外、深くなかったらしい。いや、もちろん深いも深くないも、視てるヒトの想像力いかんにかかってくるのは理解できる。でも、どかは、野島ドラママニアのどかは、第10話ではい上がろうとしているヒトたちを見ている限り「あ、そんなもん?」という印象がぬぐいきれない。

ハルはとてもとてもマジメで一生懸命な強さを持っているヒトで、だからひとつのことにしか集中出来ない。という、野島サンの意図する個性付けは理解できる。だから8話から9話にかけてハルは、アイスホッケーを見限るような形で亜紀に対する思いを募らせていく。そして今回、ハルは亜紀を見限るような形でホッケーへと帰っていく。でもね、どかにはハルのそういう揺れ動きから受けたのは、若干「軽薄」な印象だった。なぜかというと、きっとハルのなかのホッケーという世界にせよ、ハルのなかの亜紀への気持ちにせよ、イマイチ、グッと真に迫る感じにならないから。そして「ホッケーという世界」に説得力が無いのは野島サンのせい。「亜紀への気持ち」に説得力が無いのは木村サンのせいだとどかは思う。

ブルースコーピオンズというホッケーチームのメンバーとの「体育会系友情」なシーンは、もはやこのドラマの名物と化している。この高度消費社会である日本に対して、意識的に違和感を醸し出すシーンの作り方を狙う野島サンの意図は痛いほどよく分かる。その視聴者の違和感を逆手にとってテーマの浸透を狙うというのは、とても高等なドラマの作劇技法だと思う。けれども、この違和感は視聴者の中で到底こなし得ないほどの異物感と化してしまうほどに、これら名物シーンは「浮いて」しまっている。例えば「体育会系」だから「禊ぎは殴り合い」って…、ねえ。野島サンの意図は買うけれど、手法に関しては断罪せざるをえない「これは、有り得ない」。

「亜紀への気持ち」が薄っぺらく感じられたのは、既に第9話のレビューで述べたので繰り返さない。これは彼の演技プランの問題だと思う。小手先感を漂わせてしまう定型的なマンネリ。彼の限られた「引き出し」から出し入れされる小物としての表現。その「引き出し」に対して盲目的な愛着を持っているヒトならいざ知らず、出し入れされる「内容」に期待しているヒトにとっては、その「内容」に自分の想像力を重ねていきたいと祈っているヒトにとっては、もはやその出し入れという行為じたいに肯定的な評価を下すのはむずかしい。

反面、亜紀はがんばってる。容子が亜紀を問いただした時に「私はそんなに自己犠牲にばかり生きてる人間じゃないですよ」と答えたときの表情を見れば、決してその言葉が虚勢や自己憐憫から出てきた言葉ではないことは明らか。かつ、亜紀は夏川との結婚を決断したときの理由を語るとき、自分が子供の時に両親がケンカばかりしていて、そういう家族にはなりたくない、と、家族的価値観を前面に押し出してきたことも重要である。そうだ、母性とは家族的価値観と強く結びついていくものだし、母性とは自己犠牲を意識することすらしない自己犠牲だから。第8話までの亜紀とは明らかにちがう表情を見せていて、セリフのトーンも、迷いを乗り越えた落ち着きが宿っている。顕現していく母性という一貫したイメージを、竹内サンはきちんと予断無く演技で表現している。だから亜紀は、ハルとは存在の重みが、違ってくる。夏川に対して告訴を取り下げて欲しいと頼むシーン、あまり目立たないシーンだけど、あのときの亜紀の落ち着き方はとても印象的だ。そして夏川の動揺や疑心も、とてもグッと迫るものがある。コーヒーカップに淀みなくミルクを入れ、それをスプーンでかき混ぜ、口に運ぶ。その一連の動作を行う指が、震えることは無い。言葉ではなく映像で、亜紀の母性の定着の強さを表現し、それを見て夏川は、亜紀を信用していく。うん、良いシーン。ハルが絡まないシーンは、自然にスッと引き込まれる。

そして問題の、第10話のラストシーン、亜紀のセリフ。

 亜紀 ハルに会う女の子なんてどこにもいないと思う
    …だってハルはズルいから
    ハルはズルい
    自分は誰も愛そうとしないんじゃない
    ねぇ…、愛そうとしないんじゃない

 (野島伸司「プライド」第10話より)

ハルが大和に対して「自分に似合う女は世界中どこ探してもいない」って話すのを聴いてしまった亜紀が、聴かれたことに気付いたハルへ言う台詞。このときの竹内サンの表情。こぼれる涙、ゆがむ表情、定まる視線、すべて完璧。何に完璧かって、母性感情と恋愛感情のはざまで引き裂かれた亜紀の心の痛みを表現しきって余すところが無い。ここの涙は「自分が夏川と結婚することで初めてあなたは釈放されたのに、それに気付かないで何を勝手な」という涙ではない。母性とは、特に野島サンのなかでの母性とは、見返りを期待しない自己犠牲の、しかも自己犠牲だと自分で認識しない感情のことである。ハルに対して、だからそこで憤りを見せているのではない。第8話からこっち、母性の底へずーっとおしこめてきた自分の恋愛感情が、たまらず爆発したのがこのシーン。もちろん、恋愛感情は見返りを期待する。自己犠牲になった場合でも、自ら犠牲になっていることを強烈に意識する。それが、恋愛感情の定義と言ってもいい。その自分のなかの2つの極の間でブレながら引き裂かれていく課程こそ、あの涙がこぼれるスピードだ。竹内サンは、ここに来て女優の意地だなあ。うーん、あの表情の流れ、うーん。

あと、第10話で格好良かったのは、石田ゆかりサンの容子。兵頭に向かって「たかが女とは言わせないわ」というセリフは良かったなあ。ここで言う「女」は亜紀のことだけでもなく、自分のことだけでもなく、女性全体の尊厳を込めて言っているから、スッとパースペクティブがずれて見ていてハッとする。調子のいい野島サンなら、こういうさりげないけど凄い瞬間がたくさんたくさんあるんだけどなあ。

余談その1。でもそう言えば、このドラマ。「男の都合と女の意地」みたいな世俗的な対立軸で読むこともできてしまいそう。そしてそう言えば、野島サンの最新小説「ウサニ」も「男の攻撃的な性と女の守備的な性」みたいな言い方がでてきて、たしかに継続したテーマを設定してきているのかも知れない。「男と女も無いっ」という立場に対して「男と女は違うよ」という姿勢を強調する野島サン、誰か、フェミニズム的な見地から分析してくれないかな。きっと、刺激的な結果になりそう(怖い)。

余談その2。某野島ドラマファンサイトの「プライド掲示板」、何で、ああなっちゃうのだろう。いつもの雰囲気じゃなくて、こう、盲目的で主観的で短絡的でカルト的な書き込みが多くて辟易する。どかは木村サンの評価できるところはしたいと思うし、そのためにはある程度距離をとらないと見えてこないところもあるからそうしているけれど、べったりべったり防衛軍が手厚くて何も出来ないなあ、あそこでは(怖い)。

余談その3。そしてその掲示板でも、恒例の最終回予想スレッドが花盛り。どかも一応、じゃあ、予想するー。グリーンモンスターとの試合、大和は意表をついて復帰できない(でも応援する)。もちろん勝つ。ハルはNHLのトライアウトへ向かう。亜紀と夏川は、結婚、しない。夏川が結局、亜紀のことを手放すのだと思う。そして時間は少し空く(1年後、かな?)。夏川はニューヨークに仕事場を移していて、亜紀は出張でニューヨークへ来ていた。それで街角で「やあ久しぶり」と挨拶、もう「良い友人」であることが暗示される。季節は冬から、雪解けの春の日差しの季節。亜紀はNHLのリンクへと足を運ぶ。センターにはもちろんハル・サトナカ。セピア色の思い出の中で一枚だけ色づく写真。客席に亜紀を見つけたハルは、ユニフォームの左胸をグッと掴んで、ニッと笑う(…怖い)。

…ぐらいかな。でも、本当にこうなったら激しくがっかりするどか。ぜったいこんな予定調和、ヤダー。


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