un capodoglio d'avorio
2004年01月23日(金) |
ちょっと待って、神様(〜第12話) |
竜子が乗り移っている秋日子は、家出した自分の娘を追いかけて名古屋から渋谷に出る。本人達以外には、神様しか「乗り移り」の事実を知らないのだから、この秋日子の行動は周りの人間には「なんで、ヒトんちの子供のことでそこまでするの?」という感想がわき出てくるのが自然だろう。
でも、周囲の人間は、当の竜子の家族たちですら、声にして言わない。「いくらドラマと言ってもねえ」という向きも視聴者の中にはあると思うんだけど。でも、何となく、竜子in秋日子の「馬力」に押し切られて、画面を見入ってしまう。この「馬力」が、このかわいい女子高生に宿っているというアンバランスが楽しい、うん、楽しいから。
でもきっと、この渋谷にて娘を救い出す顛末を、宮崎あおいの秋日子ではなく、泉ピン子の竜子がそのまま映像として映っていたら、視聴者はここまで画面を見入ることがあっただろうか?おばさんが、おばさんとして、活躍するというところには「異化」が起きる隙間はない。なんのへんてつもないことが、なんのへんてつもないまま。それがドラマとして成立するだろうか?
と考えていくと、どかはとたんに我にかえる。
このかわいい女子高生の「ルックス」が無ければ、おばさんの「馬力」などを全く顧みる余地が無かったであろう自分に気づく。「ルックス」至上主義で浅薄な表層を滑っていくように浮世を流れる世間の風潮に気づく。ルックスと演技を兼ね備えたアイドルの存在が無ければ、このドラマを成立せしめないこの日本という社会の貧しさに、ふと気づくのだ。
でもこんな現代批判を明瞭に指摘するセリフなんかはどこにもない(これからあるかも知れないけれど)。そういうメタ的なメッセージは、あくまで言外ににじませ、あくまで行間に織り込む、そんな奥ゆかしいドラマだったのだと、どかは3週目まで観終わって初めて気づいたの。
第3週の秋日子が魅力があったのは、あくまで中身の竜子のパーソナリティによるのだ。おばさんパワーなのだ。あの「馬力」なのだ。そんな秋日子に告白してしまう茂多クン・・・。どうなっちゃうのか知らん、これから。
・・・と、ここでレビューを終えたらキレイなんだけど、でもどかは宣言してしまう。
ワタシは、あおいタンのルックスが好きでえすっ。外も中も、どっちも、好き(爆)!
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