un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2003年10月20日(月) 鈴木耕一・他「谷中谷外」

(10/19・観賞分)

芸能研の稽古でいつもいっしょしてる、
こうチャンの本業・舞踏(舞踊?)の舞台@台東区・護国院。
府中からチョクで上野へ向かい、どらと合流、
上野公園を渡って護国院に着く、現地であやチャンも登場。

舞踊はこうチャンがひとりがソロで。
それに生でチェロや篠笛、パーカッションの演奏がつく。
「ありがちかなー」と思ってたけど、
会場に着くと、チェロと篠笛の星サンが神楽殿から、
ちょっと高いところで演奏し、
客席(ゴザが敷いてあるだけなんだけど)正面にドラムセット一式に、
いろんな各種打楽器も加えたくどうサンが鎮座。
この配置は、なかなかハマっていた、いいなー。
・・・演奏が始まる。
テーマは「鬼」。

ダンサーは神楽殿の影からあらわれるのかしらん。
と思って音楽を聴きながらぼんやりそっちを観ていたの。
したら・・・びっくり、舞台と思っていたスペースではない、
パーカッションの後ろの植え立ての奥、
護国院の本殿の回廊に、いつのまにか白く浮かぶ影。



↑暗くてごめんなさい(これでもISO1600相当のモード)
 中間部の「鬼」、不気味にうごめくうごめくうごめ・・・
 「鬼」の向こう奥にパーカッションがいる


いやー、これに気づいた瞬間につきるな、と思う、このイベントは。
それくらい、全てを通して一番インパクトがあったのは、この登場シーンだ。
それから、身体性を内的イメージに還元していく舞踏的な動き。
「怯える鬼」なのか、なかなか客席の前には降りてこないけれど、
このイベントで2番目に良かったのは、
この前半の身体性をフルに顕現させた時間だと、どかは思う。
衣装に頼らない、身ひとつで、さまざまな「摩擦」を繰り出し、
そこに発生する熱を直接、客席のヒトタチの胸へと届けようとする。
山海塾と比べると、明らかに「リアリティ」の在り方が違う。
ここには、熱がある、肉がある、血が、ある。



↑炎に照らし出される「鬼」
 どか的には根元的なインパクトは薄いけど、
 舞台の構成面からの工夫は感心した


そのあとは、いったん逃げた「鬼」が、
毛皮みたいな衣装に、頭部の前後につけた2つの面が際だつ中間部。
たいまつなどを持ち出して、舞台にかがり火のように炎をあげたり、
客席のヒトの顔近く、たいまつをかざしたりと、
「怒った鬼」なのか、なんだかそんな感じ。
もともと抑えた照明に、かがり火や照らし出される面の異形さが際だつ。

そして、集結部、ふたたび姿を消した「鬼」は、
衣装を解き、面を外して、静かに沈降していくイメージを展開、
ラストシーンは客席に向かって歩みよってくる。
「赦した鬼」なのかも知れない、なんだか邂逅な感じで、
カタルシスらしきものをきちんと客席へ届けて終了。
うん、ラストシーンは、3番目に良かったかも。



↑ラストシーン、テンションを保ったまま「邂逅」する身体
 これは物理的な動きは少ないけど、かなり難しいだろうな


ちゃんと、盛り上がりもあったし、カタルシスも作ってしまって、
呆気にとられるほど、ちゃんとエンターテイメントしてたことがまずすごい。
言葉に頼らなくても、人数に頼らなくても、表現は可能なんだなあ。
ヘタな劇団のヘタな芝居よりもよっぽどリアリティがあって楽しい。
こうチャンの身体の凄さは普段いっしょに稽古してるから、
よく知っていたけれど、段々良くなってきている気がする。
四肢だけではなく、腰や背骨の表現力が増した、というか。
神楽効果なのかしらん、フフ。
そう言えば、きょうの構成、随所に神楽的なものを感じたなあ。
今度、芸能研の稽古であったら、ツッコンでやろ、ヒヒ。
でも、それは剽窃というネガティブな響きではなく、
良い意味での刺激というカタチでこれから昇華されるだろうなと、予想する。

どか的には、どかがかつて知る神楽的なるモノが、
どういうふうに彼の表現の根本に入っていくのか、
それが楽しみで仕方がない。
そう言う意味では、どかは彼の表現を、
一番贅沢に観賞できるポジションにいるのかも知れない
(でも彼は・・・イヤがるかもだな)。

いずれにしても、自己表現について言い訳をしないことは潔いし心地良い。
そこは文句なしにうらやましいし、目標にしていきたいな。


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