un capodoglio d'avorio
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2003年10月11日(土) 山海塾「遙か彼方からの ー ひびき」

まやチャンに誘ってもらい、ご一緒させていただいた。
ソワレ@ルネこだいら大ホール。
「さぁ舞踏だっ」とちょっとドキドキしながら席に着いたんだけど、
開演前にまやチャンと話したことには、
山海塾はそれほどウネウネドロドロはしませんよ、とのこと。
少し、ホッとして、客電が落ち、開演。

・・・終演、んー、面白い、面白いっす、
軽く頭が麻痺しているこの感じ、むー。

まず舞台美術からして、主宰の天児サンの美意識を100%具現化している。
舞台上に置かれた10個ほどの、でっかいガラスの浅い皿に水が張られて、
そこへ定期的に水滴を落とす、天井から吊された水を蓄えたガラスの小瓶。
床にはうっすら、細かい砂が敷き詰められていて、
どかは舞踏手が走った時に舞い上がるほこりを観るまでそれに気づかず。

音楽は加古隆サンと吉川洋一郎サンで、初めは月並みなアンビエントね。
って思ってたけど、これがちゃんとハマるんだなあ。
ひとつひとつの音の質感がきっちり区別、整理されていて、
それを丁寧に織り上げて舞踏手へと差し出される。
舞踏手は「音と音」の、「水と砂」の、そして「光と闇」の質感のあいだに、
現象としての摩擦として、ただ、そこで呼吸し、まばたきをし、次に動く。

けれども、いわゆるどかがイメージしていた土方サン風な暗黒舞踏と違い、
山海塾の舞踏手は、少なくとも上手いヒトはその摩擦から熱を放出しない。
それが、どかはとてもビックリした。
ウネウネギゥーッとうごめきひしめく感情の熱いほとばしりは、
そこには存在しない
(それはどかが勝手に舞踏のアイデンティティだと思いこんでいたもの)。
その代わりに、山海塾の舞踏手は、
摩擦でおこる空気の波動や色彩の長短を、大小を、濃淡を客席に届ける。
その波動や色彩は、おそらく観客席にすわるヒトの一人ひとりの心の中で、
「感情」や「エネルギー」、「希望と絶望」といった、
それぞれのテーマへと変換されていくのだろう。
山海塾のアンビエントさは、そのテーマの変換具合に干渉してこない。
その意味で、つか芝居からは最も遠く、
青年団の作品からも遠く、
維新派の舞台にはほどなく近い。
そんな距離感にある舞台なのだと思った。

どかは今回の舞台の波動と色彩を「悪業と救済」風に感じていた。
最後の六人の舞踏手の動きと音楽の盛り上がりには、
カタルシスを感じたし、テーマとしてはありがちだとは思うけれど、
天児サン以下の身体の流れには、
その手垢にまみれた言葉を洗い落とす清新さがあったと思う。
そして何より「熱さ」「狂い」などを排除した超望遠的客観性が、
チープなネガティブスパイラルに堕すことなく舞台の質を保っていた。

でも、この舞台で、何に一番どかが感動したかといって、
主宰・天児牛大のソロの舞踏ほど、感動したものはなかった。
あれは、ちょっとすごい。
ビックリした、素で感動した。
もともとどかは舞踏に、結構好意的な感情を持っていた。
まあ舞踏家・耕チャンという友人の存在も大きいのだけど、
こういう表現手段はやはり必然としてあって、
バレエもあって、神楽もあって、舞踏もあって、全部好き。
と、思っていたのだけれど。
でも、予想を遙かに超えて、何というか、その必然性というか、うん・・・。
説得力。
そう、説得力が、何というか、段違いだった。
あの動きはああでしかいけないんだと、思う、思う以前に意識より前に、
それを受け入れて、摩擦の波動にたゆたう自分がいた。
開演前は、つか芝居の時みたく「頑張って舞踏を見るぞ」と気負っていたのが、
ウソみたい、うん、やっぱり維新派に近いなあ。

それは宮台真司がのたまったように、縦の力。
維新派は雲間からスッと降りてくる陽光だったけれど、
山海塾は天へとまっすぐ注がれる眼差しだ。
上へのベクトルか下へのベクトルかという違いはどか的に大きく違うけど、
でも、縦への力をダイレクトに志向し、達成しているという点で、
この2つの団体がいま、現在のこの国にあって、
とても大切な奇跡として現前していると、どかは思う。

んー、天児サン、すごいなー、あれで結構お年を召されてるとか。
見えないぜ、美しいお身体、白塗りじゃなくても充分見れるだろうなー。
美しい何か、を表現するのではなく、美を直接つかみ取ろうとした、
野心的な、でも極めて平穏な、耽美的な、そんな世界。

ウネウネギューッじゃない舞踏だから、初心者でも観られる。
理想を追求しつつ間口を狭めていない点でも、
そのへんのアングラ的自己満足を蹴散らして美しい。

もう少し、観てみたいなあと思った。
まやチャン、さんきゅー。


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