un capodoglio d'avorio
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2003年08月13日(水) TBS「テアトル・ミュージカル 星の王子さま」

どかは偏見だらけなクセに居直ってるタチのワルイ演劇ファンである。
その偏見のひとつに「日本人のミュージカルはダメ」というのがある
(劇団○季に対してケンカを売ってるわけじゃないけど)。
その昔、どかがまだ中学生のころ、もうすぐ取り壊しになる近鉄劇場に、
劇団○季の≪オペラ座の怪人≫を観に行ったことがあって、
とっても失望した記憶がある、つまらなかった、恥ずかしいし。
でも大学生になって留学中にロンドンのウエストエンドで、
≪Phantom of the Opera≫を観て度肝を抜かれた。
以来「日本人の」説はどかの脳幹に刻まれたひとつの真理となる。

その真理故にこれまで「オケピ!」さえもグッとこらえて行かなかったのに、
ついに意固地などかの行動原理を揺るがすチケットを手に入れてしまう。


  何故?

  だってえ、あおいたんだもーん、らーぶーっ。


というわけで、たかだかどかの真理だの原理だのはあっけなく、
ひとりのアイドルに、いったんは、覆されることとなる。
おっと、間違えてはいけない。
この一連の背信行為において、どかの真理や原理の脆弱さを責めるのではなく、
あくまで宮崎あおいというアイドルの輝きをこそ、
褒め称えなくちゃなのだっ、皆の衆よっっ。



↑薄暮の国際フォーラム・就活を思い出す・・・


例によって前置き長すぎだな、本文に入ろう。
ソワレ@東京国際フォーラム・ホールC。

白井晃演出というのは、確かに魅力的だった、遊◎機械以来、
どかは、このヒトは演劇というジャンルに関しては絶対裏切らないと信じている。
でもその彼をして「星の王子さま」というスタンダードへの挑戦は、
無謀に思えて仕方ない、世のファンの愛着を裏切らないで、
ミュージカルへ仕立てなおすことは、ほとんど不可能じゃないか。
そんな不可能の渦の中、白井サンが拠り所にしたのは、
斬新な解釈や、唄の力の幻想でもなく、ただただ、原作へのリスペクトだった。
オリジナルへの忠誠を前面に押し立てて、控えめに控えめに、
白井サンは今回の舞台の演出をつけていった。
そしてそれは、かなりの効果を上げていったように思う。
ミュージカルというより、音楽劇、そう、ちょうど遊◎機械の舞台のように、
ずらっと並ぶミュージカルナンバーは決して自己主張を強くすることもなく、
あくまでサンテグジュペリの世界観を裏打ちするために当てられる裏布のごとく。

そんな白井演出を受けて、宮崎あおいはどうだったのか。
「かわいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ」初めてのナマあおいたんに、
登場後5秒で席に熔け落ちるどか。
そして、あの、声!
以前に映画≪ラヴァーズ・キス≫のレビューで、
あおいたんの瞳の特別について書いたけれど、
やはりナマで一番印象に残るのは声だ。
あおいたんが保坂尚輝扮する飛行士やRollyのきつねに対して、
話しかけたり、お願いしたり、叫んだりするとき、
あおいたんの身体の芯は決してぶれない。
棒立ちで台詞を読んでる、と言うわけではなく、
目の前の相手に対して、自分の持ってる言葉をただ、
届けようとしている、それだけ。
劇場の舞台の上では、でもそれだけのことが、とても難しい。
観客を前にして自分の視線や声や身体の外側を取り繕うように動いていては、
視線や声や身体が全部ばらばらにほぐれていってしまう。
身体の芯がぶれないこと、そのひとつの定点から眼差しが伸び、
声が発せられると言うこと。
観客は、王子さまの切ない眼差しや、
残酷なほどにイノセントな響きの声の出所を直感的に探って、
そこにひとつの身体の芯がぶれずにあることに安心する。
定点が定点としてあるからこそ、ピンスポットで抜くことが出来るということ。
そう言う意味であおいたんの舞台女優としての資質は、
初舞台にして充分、発揮されていたとも言えるだろう。

でも・・・、ちょっともったいないなーと思わないでもない。
保坂尚輝とあおいたんの主人公2人の歌がとても少ないということは、
まあ、良いと思うのだけれど、演出の付け方がとても、
丁寧で上品だったのだね、白井サンのが。
あおいたんは既に国際的な賞でプライズを勝ち得るほどに、
スケールの大きい女優である。
強く打てば大きく響き、弱く打てば小さく響くことの出来る、
とても優れたインプットとアウトプットを兼ね備えた女優である。
今回の白井演出は、あおいたんを弱く優しく打つことで、
小さく切ない響きを引き出そうと、その一点に収斂されていった気がする。
たとえば、終盤、きつねとあおいたんが段々ココロを通わせていくシーンは、
確かにどかが泣きじゃくってしまうほど、可愛らしくて明るくてでも切なかった
(多分、一番イイシーンだろうな)。
そして、飛行士との別れも、そんな印象で、ジーンと来た。
そんな世情の煩わしさにかき消されそうなかすかな蛍のそれのような明かりを、
抽出してイイシーンだったけど、あおいたんの破滅的な吸引力を映画で知ったどかは、
そっちも観たいなーって思うの。
まあ、白井サンがあくまで原作へのリスペクトを軸にしたから、
サンテグジュペリの王子さまはまさしくこれだろうなとも思うし、
それをあおいたんの魅力を引き出すためだけに全てを変えるなんてことは、
つかこうへい以外にはできないだろうけど。

宮崎あおいという「新人」は拙かったけれど、
他の個性豊かなベテラン役者が良く支えてイイ舞台だった。

というレビューを数件観たけど、どかはそうは思わない。
あおいたんという類い希なアンプは、小さな微かな波を拾って、
それを、美しい切ない明かり(光じゃなく明かり)に変換して客席へ届けてくれた。
その貴重さはちゃんと自分のアンテナの感度を上げていればちゃんと受信できるし、
だいいち、宮崎あおいは、「新人」ではない。

あと、この舞台で語っておくべきは、舞台美術の素晴らしさ。
あの幾何学的に整理された大きなマルやら曲線やら放物線が、
グリグリ動いて、現代的に幻想的、でもあの、
サンテグジュペリのデリケートな世界観にきちんとマッチ。
もうそれだけでも現代アートのオブジェとして、
コンスタレーションとして成り立つほどの完成度、
素材の感触をそのまま生かしつつ、虚飾を排してデザインのみで詩情を出すこと。
そして、照明も、そのデリケートさを壊さずソッとハイライトをあててくれる。
舞台美術と、照明と、衣装と、役者が、等価にあって、
全てが「星の王子さま」という世界中で愛されている物語へのリスペクトという、
一本の線上に乗っかってくる。

宮崎あおいスペシャルではなくあくまで、
「星の王子さま」というプロジェクトで観たならば、
この舞台はまさしく大成功だとどかは思った。
名匠白井サンの透徹した視線が行き届いていた、
チャレンジングなオーソドキシーとして。


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