un capodoglio d'avorio
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2003年07月25日(金) 岡崎京子「ヘルタースケルター」

  いつもひとりの女の子のことを書こうと思っている。
  いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを。
  一人の女の子の落ち方。
  一人の女の子の駄目になりかた。
  (岡崎京子「ノート(ある日の)」より)


これは『ちくま』1996年1月号に収録されたテクストである。
本作「ヘルタースケルター」は95年7月から、
事故による中断の96年4月にかけて『フィールヤング』に連載されたから、
このテクストはまさに執筆中の作者からこぼれた貴重な資料。
そう、このマンガのなかで主人公りりこは、際限なく落下していく。

「欲望」がテーマだ。
りりこは自分をモデル・女優として売り込むために全身を整形する。
すでに、もとの原形をその身体に求めることは不可能であるほどの整形は、
絶え間ない「資本投下」による「メンテナンス」「薬剤投与」を、
この先半永久的に要求するモノだった。
世間の羨望を一身に浴びるトップアイドルの位置まで
のぼりつめたりりこを待っていたのは、
「メンテナンス」の限界による、破綻だった。
必死のメイクでごまかしつつも身体がどんどん崩れて、
さながらゾンビのようにただれる彼女はついに、
「美容整形」の事実をフォーカスされる・・・
この「美容整形」クリニックの非人間的施術の捜査を進めていた、
麻田刑事とりりこが邂逅するとき、次のフェーズの扉が、開く・・・

と、こんな感じのプロット、すごいよな。
でも、実際にコマ割りを見ていくと文字で読むよりも衝撃は、でかい。

りりこはとにかく、自分の欲望を全肯定していくように見える。
ただでさえ世間と周りにはさまざまな欲望がぬめぬめうごめいていて、
そんな資本主義の世界をうまく泳いでくには自分の欲望を抑えちゃダメ。
抑えた瞬間、あなたは推力を失って、ぬめぬめの海に沈んじゃうよ?


  幸せになれるチャンスを恐れてはいけない


これは89年に刊行された岡崎ベスト5に入る名作「PINK」のテーマだった。
けれども96年の岡崎サンは、さらにその先へと進んでいたのだ。
欲望は肯定するしかない、その先には、もはや、幸せも、無い。
私たちは、もはや先に待つ幸せすら、考えてはいけない。


  それでも欲望を、肯定しなくてはならない


実際、りりこは、地獄へ真っ逆さま、自然落下を続けるその瞬間にも、
決して後悔しないし、ましてや自分を哀れむことは決してしない
(他人に哀れまれることだけは、絶対、我慢できない)。
自分の欲望に対して、身体を張ってそれを生きてきたという、
誇りからか、微笑さえ浮かべながら、底の見えない「急流滑り」を続ける。
私たちはりりこのその激しすぎる没落の姿に打ちのめされるのではない。
りりこが、どれだけゾンビのようになろうとも決して目線を落とさず、
キッと私たち読者を見返してくるその、瞳の透明さと強さにやられるのだ。
うん、やられる、やられるよ。
とりあえず、口は聞けなくなる、しばらく、読み終えたあと、衝撃で。
食欲も無くなる、目の水晶体の痙攣が、なかなか止まない。

髪の毛が抜けて、皮膚がただれて、週刊誌にたたかれるりりこは、
それでもなお、私たちの目に魅力的に映るという事実から、
逃れようとしても、無駄である。
ここには「力」があり「リアリティ」がある。
欲望の表層を上滑りして無機質な砂をかみながら笑う私たちには決して無い、
「闇」とそして結果として浮かび上がる「光」がある。
本当の漆黒の暗闇に際すると、望月峰太郎の「ドラゴンヘッド」のように、
ヒトは足がすくんでうごけなくなる。
そこで引き返してみんな、薄い薄暮の中、生きることになる。

何を?

永遠の退屈を。
異常な倦怠を。
それはつまり有り体にわかりやすく言うたれば、
あらかじめ四次元ポケットを手に入れてしまったのび太に等しい。
全てが手に入るけれど、「何も手に入らない」。

しかしりりこは進んだのだ。
「十字路」の上で、善と悪の彼方で。
それでも、何かを「手に入れよう」としたのだ。


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