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2003年04月15日(火) 手塚治虫「アトムの最後」2

本当のファンタジーとは一体どういうものを言うのだろう。
「おとぎ話の夢の国」を信じさせることをファンタジーというのだろうか。
違う、そうじゃないよね。
最近、ちまたにあふれる「癒しパンク」は、ファンタジーでもなんでもない。
そんなん薄っぺらい、表現者自身が信じていないようなハンパな「夢の国」。


  アトム あなたたちみたいに心の底から愛し合ってたら
      心配いりませんけどね
      たとえ人間とロボットでも


「鉄腕アトム」という作品は、優れたファンタジーだと思う。
そこには表現者の、深い深い、祈りがある。
子供だましでは決してない、本当の「夢の国」への期待がある。
それは手塚先生が、冷徹で明確な悲しみの「実際」を知った上で、
ペンをとっているからだと思うどか。
土台に実際がないと「夢の国」は妄想に終わる、もしくは、
安易なハッピーエンドの子供だましに如かない。
土台に「実際」があれば、そこから想像力を飛翔させればさせるほど、
どんどん素晴らしい「祈り」が込められたファンタジーになってく。
そういう意味で「アトムの最後」は、素直なハッピーエンドだとは、
とても読めないのだけれど、まちがいなく優れたファンタジーだと思うの。


  丈夫  まってくれ
      いまなんていった
      「人間とロボットでも」だって?
      だれがロボット?

  アトム もちろんジュリーさんですよ

  丈夫  ジ、ジ、ジュリーが?
      ロボット?


ヒトによってはこれが現実以上にヒドい救いのない暗い話だと言うかも知れない。
でも、ほんとうか?
冷たくなったイラクの少年の映像を見て、
もう「モノ」になってしまった息子をかき抱いて嗚咽する父親の姿を見て、
得意満面の笑みで勝利宣言する某国大統領を見てなお、そう言えるのか
(さっきもニュースを見て涙がこぼれたどか、
 あまりの怒りに泣いたのは初めてだ)。

じゃあ「アトムの最後」はただの現実だろうか?
そうは思わない。
どかはこれがファンタジーであると認識し、
ここにこめられた「祈り」を絶対に、支持する。
何度も何度も読み直して、やっと、
この陰惨な書き割りの連続のどこにどかが惹きつけられるかがわかった。
それは、次のセリフ、三つのコマだ。


  アトム あっ・・・・・
      追っ手だ

      まっすぐこの島へ
      向かってくるな

      いくぞ!!


アトムが最新鋭のロボットに対して、
勝ち目のない戦いを挑んで飛びだつ瞬間、
「いくぞ!!」と叫ぶ、この小さなコマ。
その2コマあとでもうアトムは破壊されるのだけれど、
最後のこのセリフの文字は写植ではなく、
漫画家自らが書き入れた文字になっていて、その美しさ。

アトムはヒトとロボットが共生できる可能性を信じて、
とにかく、そこだけを恃みに飛び立った。
実際に彼が信じた丈夫とジュリーの愛情とはもろくはかなかったのだけれど、
ともかく、アトムは、その可能性を最後に信じたのだ。

最後の瞬間のアトムを、
「バカ正直だ」と笑ってはいけない
最後の瞬間のアトムに、
「ロマンチックに過ぎる」と悲しくなってはいけない。
最後の瞬間のアトムが、
「有り得ない夢物語だ」と識者ぶって無かったことにしてはいけない。
手塚治虫は、本気でこの小さなコマのなかのアトムに、
自らのポジティブな想像力の全てを託している。
漫画家が想像力をいかにすさまじい努力で維持しているかは、
この吹き出しのなかの「いくぞ!!」の文字を見ればわかる。
漫画家にしか到達し得ないイメージ表現の粋に、
尊い「祈り」がこめられている。

世相は暗い。
「アトムの最後」は2055年の話だけれど、
アトムが生まれた2003年にすでに、人類は手塚治虫が描いた52年後の世界を、
その暗雲立ちこめる絶望に関しては先取りしてしまっている。
きょうよりも明日が良くなるなんて、誰も思っていないという、悲惨な時代。
それは本当に、何という悲惨な時代だろう。

でも、どかは思う。

ページを開けば、何度でも、アトムは追っ手に向かって飛び立ってくれる。
何度でも何度でも、アトムは飛び立って戦おうとする。
大切なのは100万場力なのではなく、
もっと別の、誰でも持てる小さな力だと教えてくれる。
誰でも、持とうとすれば、持つことのできる、小さな力なのだ。

結局、アトムは虚無に負けたのではない。

アトムは虚無と戦うために飛び立ったのだ。


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