un capodoglio d'avorio
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2003年03月17日(月) 能「胡蝶」ー観世清和の至芸ー

いつもはコクーンやザ・ミュージアムにお世話になるBunkamura。でも今夜はオーチャードホール。ちょっと緊張。いつ以来やろか?・・・ああ、そうだ。一昨年の12月、かまぽんと一緒に行ったビョークのコンサート以来だ(アレもまだレビューにしてない、書かなくちゃだわ)。

きょうはお能。観世清和の「胡蝶」、でもいつもと趣が違うのが、衣装が森英恵、舞台装置となる立花を草月流家元の勅使河原茜が舞台上でいけるということ。ちょっと「イロモノ」っぽいけど、先だって観た「弱法師」が良かったから、清和サマを信頼してみたどか。

「胡蝶」のストーリー。「源氏物語」の「胡蝶」の巻を背景に。かつて光源氏が住んだ住居跡を訪ねた僧の前に、一人の女性が登場。花に縁の深い蝶だけれど、梅の花には戯れられないことを嘆いて、僧に願いを託す。その僧の夢の中に、女性は胡蝶の姿となってあらわれ、美しい梅の花に戯れて、という感じ。「弱法師」より、あっさり目のテイスト。

さて、草月流家元サマのいけばな。あんまし期待してへんかったけど、なんか、面白かった。「おはな」の「お」も知らないどかだけど、黒いまったくの素舞台の真ん中に大きな花瓶。で、真上から白いスポットで抜いて、そこに家元登場。大きな梅の枝を2つ花瓶に立てるところから。お弟子さん?らしき男性二名がテキバキお手伝い、無言な舞台、静まりかえる客席、響くのはパチン、パチンと、枝を切るはさみの音。10分足らずであっという間に完成。音もなくハケる三人。残された立花。代わりに入ってくる囃子方の人たち。そして鳴る、能管。・・・瀟洒だなあ。

最初は「だったら、幕開ける前に作っとけよー」と思ってたけど、あのいけていく無駄のない動きは、見てて心地よかった。アリだね。で、しかも、その後、その立花はそのまま能舞台の構成要素になっていくから、ライブ感の立ち上げという意味でも、その説得力は認めたい。アリだね、アリアリ。

森英恵の衣装。微妙。この曰くありな衣装は「中之舞(夢のシーン)」以降でお目見えになるのだけど袖や背中にデカデカと施された「ピンクのチョウチョのデザイン」、ジャマ。あれは、舞のジャマにしかなってない。確かにゆったりとした生地の仕立てや、衣装自体の構成は浮遊感を出すために白を基調、中にあわせた薄い鶯色との組み合わせはとても気品があって、けれどもうっとうしくなく、舞ともマッチしてイイ感じだったのに。ま、意識的にチョウチョの意匠を排除して見てたから途中から気になんなかったけど。

そして、清和サマ。ホントにイイ声。声量じゃなく抑揚じゃなく、声自体がえもいえない香気に満ちて。下世話な例えだけど、上川隆也の声がイイ声だというのと同じ意味でイイ声。で、後半の舞。これがねー、すごかったの。途中まではなんか、ただ、キレイだなーって思ってただけだったんだけど、半ばにさしかかったとき、舞台中央、立花の前でハスに構えて、袖を「パッ」と腕に絡めた瞬間、スイッチオン。舞台上のパースペクティブが猛スピードでずれる。なんか、涙がこみ上げてくる。・・・「ああ、恋物語だったんだね、これわ」。これは能の「スワンレイク」だーって。

  春夏秋を経て
  草木の花に戯るる
  胡蝶と生まれて花にのみ
  契りを結ぶ身にしあれども
  梅花に縁なき身を嘆き

現実には、時の流れの中では、本当にミニマムな愛というのは存在することができないから、いろんな雑音に紛れて、いろんな欲望に遮られ、いろんな足枷に搦めとられて、ミニマムな愛のコミューンとは現実には無理だから。だからせめてこの世を離れた時には、せめて、限界を超えて。そう願った一つの魂の舞なのだ。そのコミューンを野島伸司は白鳥が羽を休める木立の中の小さな湖にイメージした。観世信光は梅の花薫る古宮の庭に、コミューンを見たのな。限界を超えて、現実を離れるほどに、それにリアリティを持たせるほどに、トン・・・トン・・・と目の奥で共鳴するシテの足拍子。それに鼓が重なり、地謡が重なり、能管がカーンッとこめかみを打つ。






トランスするさあ、そりゃあ。スイッチが入ったのは、ものの三分くらいだった気がするけど、でも、それだけで、お腹いっぱい。よけいな説明やエクスキューズのない、不純物がそぎ落とされた時間。でも想像力のスイッチはちゃんとあるから、それで、いい。


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