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un capodoglio d'avorio
| 2003年03月15日(土) |
野島伸司「高校教師('03)」オオカミについて |
「オオカミが来たぞ」のシーン、 京本政樹のすさまじさ、狂気。
精神的な愛をとるか、身体的な愛をとるか。 来世的な希望をとるか、現世的な希望をとるか。 自ら燃えて熱量を発する恒星となるか、恒星を静かに回り続ける惑星となるか。 他人によらない真実の光を放つベテルギウスになれないなら、 せめて燃え尽きてでも一瞬に煌めきを得られる流れ星に。 円環の中、重力の数式に支配される生よりも、 直線にあって、数式から解放される死を。
藤村にとって、煌めきと解放とは、紅子である。 「ある種の情緒の深度が似ている(第5話「真夜中の対決」より)」紅子。 しかしそれは健康的な愛ではない。 優しく会話をしたり身体を求め合ったり子供を作ったり、 流れる時間の中で慈しみあいたいわけではない。 そこでは優しさもセックスもDNAの連鎖もなく、時間もない。 かつてある小説の中でその場所を「スワンレイク」と脚本家は呼んだ。
「スワンレイク」を強く求めていく情緒のスピードが、 このシーンの藤村の狂気の正体。 ジリジリと悠次を追いつめる彼の動きはゆっくりゆっくり。 一言も感動的なセリフは、無い。 恐怖にまみれた悠次の叫びと、 それをあざけるかのように繰り返し繰り返し、
オオカミが来たぞ
オオカミが来たぞ
オオカミが来たぞ
と緩やかにけれども悪魔的な微笑で相手を追いつめる藤村。 なぜかどかはこのシーンが一番美しく見えた。 悪魔的な微笑の裏に潜む、狂気の、そのすさまじいスピード。
けっして自己犠牲の美しさではない。 紅子のため、身を投げ打った一人の男への感傷ではない。
ついに「スワンレイク」に辿り着けたんだね、良かったね。 そんな、共感と感動の涙である。 それはかつてあるピアニストが、自らの右手を、 割れた瓶で串刺しにした瞬間の、涙。 普通の感傷の涙よりも少しだけ上等な、 きれいな涙。
なんだか、そんな感じ。
そんな余韻に部屋が染まって、 「博物館学」のテキストが頭に入らない。 んー、困った。
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