un capodoglio d'avorio
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2003年03月10日(月) つか「寝盗られ宗介('03)」3

さて、役者サン。吉野紗香は、まあ、ね。初日の幕が開いてから、楽日までの成長はなかなかだとは思った。でも、どかはどうしても小西真奈美と比べてしまって。でも戦犯では、ない。小川岳男、もーすこし、キレて欲しかったなあ。スケールの大きい波動で舞台を染め上げたけれど、スピードが足りないかも。「熱海」の大山で見せた感情のスピードを見たかったかな。でも戦犯では、ない。もう、バレバレだけど、どかの中で戦犯は、一人。横山めぐみだ。

後半、劇中劇に入る前、座長とレイ子が2人でお互いをいたぶるシーン。「蒲田行進曲」でも「飛龍伝」でも「熱海」でも、この2人でマゾヒスム度を極限まで高めていく、痛く長く続くシーン。どか、少し眠かったもん。ここ。つか芝居で眠くなるなんて、悲しいよ。レイ子、前半はなかなかいいんだよね。でも後半のこのレイ子のシーンと、劇中劇に入ってからのお志摩のシーン、足らへんって、全然。銀チャンひとりでかわいそう。がんばってるのは分かる。精いっぱいやってるのもわかる。でも、この芝居のセリフであるように「がんばってること自体には何の意味もない」ねんて。確かに綺麗なヒトだ。生の舞台でも映えるくらいキレイなヒトって日本の女優見渡してもあんましいない。確かにこの彫りの深い伝統的な美人顔は、舞台向きだわ。でもね。つか芝居はそれだけじゃあ、足らない。言葉で指摘すれば「銀チャンの言葉を受けきれてない」「自分の言葉も上滑りしている」ということになるんだろうけれど。

でもね、銀チャンはがんばってた、それでも。きょうは前から4列目、上手側の一番端。銀チャンこっちがわで見栄切ってくれること多かったから、嬉しかった♪あのポマードべったりのオールバックに、青いアイシャドウばちばち。たまんないッス。どかが女だったら、もう、ヤバいと思う・・・。で、レイ子をいたぶるシーンとかもう、ゲスな男のフェロモンがプンプンで。そしてあのつか節。ああそうなのだ。つかのセリフはこうやって響くのだわって思い出した。「新・幕末純情伝」や「犬を使う女」、「熱海殺人事件モンテカルロイリュージョン('98)」(注:この3つともレビューまだです、そのうち書きます)でどかが出会った銀チャンの輝きが今ここにあることが嬉しかった。あふれる才能が過去のモノではなく、いま自分と同じ時を呼吸していることのダイナミズムは、例えようもなく至福なのな。

相方の横山めぐみが、いっぱいいっぱいだったから後半はひとり相撲になって、でも、本来なら目の前の相手と戦うところ、銀チャンは目に見えない何かを探して、それに向かって戦っていた。その孤独な戦いは、全てのキャラクターが舞台上からはけて、宗介ただひとり舞台に残る最後のシーンにおいて、美しくも極まる。'98では西岡徳馬がひたすら藤山直美の姿をもとめておろおろうろたえていた。'03では山崎銀之丞、ストーリー上は横山を待ち続けることになってるんだけど、でもどかの目にはそうは見えなかった。もはやレイ子はどうでも良く、もっとメタ的な戦い。ストーリーを「ハッピーエンド」にまでひっぱるためにひたすらカラダを張って戦っているように見えたの、見えない敵とね。幕の奥に向かって手を伸ばす瞬間の銀チャンの目。ああ、痺れる、ホンマに。歯を食いしばって、ガマンして、ひたすら耐えて、「ハッピーエンド」が来るその瞬間まで、舞台をひとりで支えきるという悲壮な決意。この決意を、ヒトは「華」と呼ぶんね。

でもやっぱり、かわいそう。'98の藤山直美みたいな、すっごいレイ子がいたら、この「華」はもっと大きく舞台をそめていくことが出来たはず。銀チャンは最後までひとりぼっちだった。小川岳男のフォローも、ここでは届かない。つかサンの演出すら、助けてくれない。全部ひとり。まるっきり、自分だけ。それを思うと涙がにじんだ。カーテンコール。ぼろぼろだったもん。銀チャン。ほんっとに「あしたのジョー」みたい。燃え尽きてボロボロ。今年は古い脚本を焼き直して使ったから、まだ銀チャン、息してるけどこれが'98バージョンのホン使ってたら、きっと、銀チャン、死んでるな。あの壮大なスケールのホンで、サポートもなく、ひとりで「華」を守ってたら、マジでカラダがいくつあっても足りない。

どかはきょう、カーテンコールに拍手しながら「ああ、今年はこのバージョンのホンで良かったんだ」と納得できたよ、ココロから。仕方なかったんだ。ホン自体の破壊力は弱いけれど、でもこの布陣ではこれが精一杯のホンだったんだ。つくづく、なんでつかこうへいは「ストリッパー物語」ではなく、こっちを演出しなかったんだろうと、思う。石原良純と渋谷亜紀、2人足しても銀チャンの「華」の足の小指の爪の先ほどにもなんないよ。とは言いつつも、あした見に行くもう一つの新宿でやってるつか芝居、本家本元つかこうへい作・演出のそれは、楽しみではある。

にしても、つかのホンは、本当に優しい。野島伸司が言うところの「弱い」人間とは、実は感受性が豊かな人間のことを差すのだけれど、そんな人たちにとっては、生きると言うことは絶え間なく「歪んだ自分」に気づき続けるということで。そして、そんな自分の「歪み」を受け入れるためには、あえて互いの歪みを指摘し、いたぶりあい、なぶりあうことで生じる痛みを、ココロに刻むしか、仕方無いのかも知れない。その「痛み」の分だけ、自分の「歪み」の度合いが正確に測れるのだから。その正確さだけが、世界と自分との間に発生する「人生」というものへのアプローチなのだから。「人生」を成立させるためのマゾヒズムが、ここには、ある。

せやからね、この「前向きのマゾヒズム」を舞台上で展開出来る役者サンは、この世の中で一等強いココロと、この世の中で一等弱いココロを同時に持っているヒトじゃなくちゃだめ。けっして最初からバランスをとろうとするんじゃなくて、その引き裂かれた自分のココロの痛みを知ってるヒトじゃなくちゃダメなのさ。つか芝居ほど役者にとって苛酷な芝居はそうそう無いだろう。軽いふやけたつか芝居は、ちょっとかじった役者なら簡単なんだけど、本当の、真剣なつか芝居は、きっと今の小劇場界全部を見回しても、それより苛酷な舞台はないだろう。・・・銀チャン、おつかれさま。

あああああ、それにしても、つかサンが演出やってくれてたら(まだ言うかオマエわ・・・、餅をついた性格・どか)・・・。総論。2003年バージョン「寝盗られ宗介」は傑作である。どかの期待値はマックスであり、それに届かなくても、これは傑作だ。山崎銀之丞というひとりの人間の、あらゆる意味での孤独や寂しさが、徒花になるかと思われつつもひそかに咲かせきった舞台。千秋楽の最後の10分間の銀チャンこそ、真のすたーサンの底力だった。どかはつか芝居を、肯定出来る。

「本当にかっこいいとは、真のエンターテイメントとは、こういうことだ」

山崎銀之丞、絶対支持宣言。っつうか、らぶ。


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