un capodoglio d'avorio
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2003年02月19日(水) 野島伸司「スワンレイク」3

二度目、読了。<思慮>であり<モラル>の象徴、アンの言葉。

  本来、社会とは個々人の持つ情緒レベルによって
  その社会の居住区を決定すべきなんだ(「第一章サンク」より)。

ありきたりな選民思想だろうか?悪人を個人として罰していくのではなく「悪」それ自体の発生要因についての洞察。これは決して、ありきたりでは、ない。それは続く言葉で分かる。

  人種でも宗教でも知能レベルでもない。
  感受性や情緒レベルによってね(同上)。

これまでの選民思想が、未だ「約束の地」へと人類を導いてこなかったことは、いまこの瞬間にもニュースにテレビのチャンネルを合わせれば誰でも分かることだ。けれども、アンは(=野島伸司は思考実験として)有史以来未だ誰も想定し得なかった新たな区分を仮定する。

  争う人は争いの国で奪い合い、殺し合うがいい。
  嘘をつく人は嘘の国に、
  自意識の強い人はブラウン管に閉じ込めて鏡の国に住むがいい。
  第二思春期で完成される情緒をもって、
  行くべき国に行かせるんだ(同上)。

ここにいたって、「レベル」という言葉をアンが選んでいても、それは単純な一本の物差しやある偏差値で測れるものではないことが分かる。誰の心の中にもある<欲望>や<自意識><悪意>といったベクトルの大きさを測るということ。そして分かりやすいフレーズでこの仮定をまとめるアン。

  同じ花を見つめて、
  美しいと感じるレベルがあまりにも違う人間が混在して居住することに
  人間の悲劇があるのさ(同上)。

アンが象徴する<モラル>とは一般的な社会的通念のことでは、決して無い。それはよりもっと一般的な、人が人として生きていくための、有り様への考察、理想。「同じ花を・・・」というこのフレーズは、なかなか名文句だと思う。誰かが誰かを口角泡を飛ばしてののしった、という端から見てればのんきな与太話をえんえん流しているここんとこのニュースをふまえて、も一度読んでみると確かにそう思える。宗教や知的レベルは、何ら有効な尺度として機能しえないだろう。けれども・・・

  しかし実際そんな区分は出来っこない。
  だからこそ秩序が必要なのだ。
  心の美しい人が病むことのない世界が。
  モラルが大事なんだ(同上)。

これが、このおはなしのスタート地点だったのだろう。332ページのある脚本家初の長編小説は、このアンが最後に語った「秩序」と「モラル」の不可能性がひとつのテーマである。情緒レベルによる選民思想を持った、秩序の執行者たるアンが、決定的なミスを犯す。そこから<欲望>が消去され、<自意識>も葬り去られ、ついに自ら本来周囲に向けていた鋭く青い刃を自らにあてがわざるをを得なくなり、ついに自壊、<モラル>も潰えてしまう。五人兄弟で残ったのは<悪意>と<無垢>・・・

福音を書き記した存在、選民思想を唱えた存在、もしくは罰を執行する存在、それらの存在自体も、ついには一個の人間でしか有り得ないという当たり前の事実は、全ての理想を打ち砕くに十分である。他人を傷つけたことのない人、何かを損なわせてしまったことのない人が、はたしてどこにいるのだろう。それならば、つまるところ寛容と許容という月並みな結論になってしまうのだろうか。

いや、違う。そもそも、野島伸司がアンという登場人物を使って始めた思考実験は、寛容と許容にも、いいかげん限界があるという、これこそ当たり前な事実からスタートしたのだ。グルグル回った野島伸司がバターにならないために考えたもう一つの選択肢。それが<スワンレイク=ミニマムな愛>だったのね。うんうん、随分クリアになってきたー。


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