un capodoglio d'avorio
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2003年01月23日(木) 遊園地再生事業団「TOKYO BODY」

きょうのこの芝居で、どかの観劇シリーズはしばらく打ち止め。トリを飾るのは、以外にも・・・

またもシアタートラム、ソワレにて観劇。宮沢章夫ひきいるプロデュース集団・遊園地再生事業団、ひさびさ復活公演、どかはここの芝居、お初。実はどかは、作・演出の宮沢サンの作風には、苦手意識があったのね。

夢の遊眠社や第三舞台が次々に失速していった殺伐の90年代、宮沢サンのそのナンセンスでシニカルな独自のスタイルは、世のサブカルシーンの盛り上がりと共に新しいカリスマとして君臨した。大人計画の松尾サンも同じ二次曲線を描きつつ上昇を続けた人だけど、松尾サンは「下世話でゲスで毒をまき散らす」感じ。対して宮沢サンは「高踏的で洗練されたシジフォス的不条理」な感じ(あくまでどかの持ってたイメージね)。なんか「遊園地再生事業団の良さが分からないのは芝居フリークとしてダメだ」的な踏み絵っぽいイメージが、イヤだったし怖かったのさ、最初は。

最近、ようやく自分の劇場へ足を運ぶスタンスみたいなのが定まりつつあって「踏み絵でもなんでも来ぃや」的覚悟が固まったのね今回。で、感想。

  んー、むっずかしい・・・、これはアリなのか?

宮沢サン本人がチラシで謳ってるように、今回の戯曲は、かなり変わっていた。それは純粋に台詞でもなく、はたまた現代詩でもなく、それの中間あたりを常に揺れ続ける「テクスト」。それを何人かの固定の役を持った役者が読み進めていき、その間に何人かのギリシアの古代劇に出てくるコロスみたいな役者が「舞踏めいた」動きのダンスとマイムで繋いでいく。演劇・・・なのだろうか?わかんないっす、現代美術にむしろ近い気がした。パフォーマンス・アート。

そのテクストの内容とは、一体「からだ」とは何なのだろうか?という問いかけが、辛うじて一貫して続くテーマ。東京以外のいなかから、行方不明になった恩師を探しに東京に出てくる。しかし、東京という街で彼らは自分のアイデンティティを見失ってしまう。「私は・・・ではなかった」「私は・・・だった」という<過去形>でしか自分を表現できないキャラクターたち。この<過去形>による呪縛という構成は、唸るしかない、あまりにするどすぎる視点だ。この<過去形>を<現在進行形>に変えて自分を表現するために(=自分のアイデンティティを取り戻すために)、彼らは恩師を探してさまよい歩く。

恩師は恩師で、東京に出てきて行方不明になった三女を探しに東京に来ていたのだ。そしてその三女も「ここにはなにもない」と言い捨てて、いなかから東京に来ていた。つまりアイデンティティの象徴のように見えた恩師も、自らのアイデンティティを失っていて、そのアイデンティティのアイデンティティも・・・という絶望の入れ子構造のなかから、東京という街の平凡性と特殊性が立ち上がっていく・・・

劇中、1行も台詞を書けないくせに劇作家を名乗る男は、近松門左衛門へのリスペクトを表明しつつ、いかなる「台詞」が東京において成立しうるのか・・・と、悩みながら、この恩師をめぐるドタバタに巻き込まれていく。そして近松の浄瑠璃のように心中しようとしている若い男女に向かって、

  死ぬな!死んじゃダメだ!
  まだ絶望が足りないのか!絶望がないと台詞一つ書けないのか!

と絶叫する。アイデンティティを失った現代東京の果ての果てに響く、台詞「未満」のつぶやき・・・。

・・・どかがせいいっぱい、頭の回路をマックスまで開き、心の感度をマックスまで上げて、理解を試みた結果が、上記な感じ。でも、予想通り、抽象的で不条理な「テクスト」は、二時間半見続けた結果、頭がショートするくらい、大変だった・・・。これは、ありなのか?確かに、目の前の事象を追いながら同時に並行して謎解きを頭の中でこなしていくのは、否が応でも達成感にひたらせる作業に違いない。

でもさー。ここまで、既存のものを破壊しつくさないと、リアリティは表出しないものなのだろうか?確かにサブカル界のカリスマになっちゃうほどの、深い精神性と斬新な切り口を持っていて、それは認めるけどー、って感じー?

一つ、文句を。舞台美術は悪くなかったんだけど、デジタルビデオを使った<舞台上リアルタイム中継>は、どかははっきり、嫌い。あんまし映像に頼んないで欲しいなー、劇場では、少なくとも。いくらリアルタイムの一回性が保証されていたとしても、デリケートなライブの臨場感は、侵犯されてしまうよぉ。

一つ、良かったの。コロス的な役者の使い方、上手だったな。日本総合悲劇協会「業音」で松尾サンも一人だけ、こんな使い方したけど、宮沢サンのが、洗練されて効果的ではあった。映像で侵犯された生の身体の聖域を、彼ら彼女らが守ってたな。

・・・




「かつて私は会社員だった」
「かつて私は大学生だった」
「かつて私は留学生だった」
「かつて私は・・・」

遠のく<現在形>、とりまく<過去形>。
融解するアイデンティティ、誘拐される、私自身・・・
この「からだ」は、ちゅうぶらりんりんりん。
シアタートラムで、ringringring...


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