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2002年12月17日(火) 大阪日誌5日目(大レンブラント展・国宝「桜図」)

きょうは朝から晩まで、イベントづくしな一日だった・・・

大レンブラント展@京都国立博物館

今回の、どか帰省のメインイベントである大レンブラント展へ向かう。京阪電車七条で下車、賀茂川を背に東に向かってポチポチ歩くと見えてくる。


↑美しい展示物、美しい建築物、だのになぜこんな無粋なテントを?呆れる・・・

なんとレンブラントの質の高い油彩が50点近く出品されるという世界的にも屈指の展覧会、そして東京には来ない京都のみの開催ということもイベント性を高める一因。というか世界で京都とフランクフルトの二箇所でしかやんないっぽい。思い出すのは去年大阪でやった「フェルメールとその時代展」。あれもインパクト、すごかったもんねえ。

フェルメールが青年団風だとしたら、レンブラントはつかこうへい的だ。17世紀の同時代に同じオランダで活躍したこの二人の類いまれな画家の光の使い方は見事に対照的。フェルメールの光は窓から差し込む自然光、柔らかなそれは部屋の中を優しく包み、家具やモデル、室内装飾全てを等しく照らし出す。結果、カンバスの前に立つ人は目に見えない影の部分に思いをめぐらし、小さい室内画に無限の奥行きが生まれるのだ。レンブラントは違う。そのカンバスには、闇に沈めた背景からピンスポットで浮かび上がるモデル。とにかく強烈な明暗のコントラスト。ドラマチックな演劇的効果を最大限に活用し、か細い光の中にモデルの尊厳を結晶させるために、画家は無限の闇を手なずける。その闇は、画家自身の心に澱のように積もる闇、だからキャリアの初期よりも晩年の作品にこそ、いわゆるレンブラント的な凄みが宿っている。この展覧会は、画家の「闇」が重なっていく経過をたどる、貴重なツアーなのだね。

NHKや民放の特番でもけっこう取り上げられてる展覧会、中でも話題だった「目を潰されるサムソン:The Blinding of Samson」はイマイチなどか。よく練り上げられた群像描写はさすがだけれど、まだ自らの「闇」を自覚していないため洞窟の入り口から差し込む光の扱いがあやふやな気がする。それよりも晩年の「ヨアン・デイマン博士の解剖学講義:The Anatomy Lesson of Dr.Joan Deijman」は、久々に戦慄を覚える。過去の火災で現存するのは元の五分の一に満たない。もちろん目を引くのは内臓をえぐられ頭骨を割られて脳があらわになっている「罪人」で、一説によると画家はこの「モデル」にキリストの面影を投影しているという。その話を聞くまでもなく、ここには何かが「いる」としか思えないほど圧倒的なテンション。残酷な描写で観る人にショックを与えたいなんて、浅薄な思想に終わらなかった天才の発露だ。<残酷>ではなく<尊厳>という真実に触れているからこそ、時代を超えて国を超えてそのテンションが伝わるんやと思うどか。

あと感動させられたのは「机の前のティトゥス:Titus at the writing desk」。画家の幼少の実子を描いたこの作品、机に頬杖ついて物思いにふけるモデルはどこまでも愛らしく、それを眺める父親のやさしさがにじみ出てるな。晩年の作品っぽく筆致は荒くて、もしこれが16世紀の作品だったら<未完成>というレッテルがつくやろな。愛しい我が子を描くのに、あえて繊細な仕上げで美しい肌を描こうとしなかったのが、さりげないけどレンブラントのすごさだと思うの。みずみずしくてイキイキした子供の<一瞬>の美しさを画布に残せた成功は、息子への愛情と自らの才能への自信とが、卓越したバランスをとったまるで奇跡。

それ以外にもたくさんいい絵があってほとんど「凡作」が無いのがすごい。これやったらメトロポリタンであろうがルーブルであろうがどこでも通用するんちゃうかなあ。レンブラントは最も好きな画家の一人、というわけではないのだけれど「ティトゥス」は大好きなのね。大好きぃ。

長谷川等伯・久蔵親子「桜図・楓図」@智積院

京都国立博物館から徒歩三分、智積院に向かう。ずぅっと一目見たかった障壁画。言わずとしれた国宝・長谷川等伯の「楓図」、息子久蔵の「桜図」。浮世絵嫌いなどかにとって、日本美術史というのは四人いればいいの。つまり狩野永徳、長谷川等伯、俵屋宗達、尾形光琳ね。あ、彫刻家も入れればあと二人か、定朝と運慶ね。とにかくこの人たちは別格、すごすぎ。で、観にいったのだとにかく。


↑何回も行った三十三間堂はきょうはパス、で、こっちにした・・・

「桜図」。とにかく、美しい。ただひたすら、美しい。それ以外に言葉が出ない。<ああきれいな桜を描いたんだね→だからきれいだね>という認識すらここでは起こらない。目の前に描かれているものが何なのか、というカント的な意識の流れは排除されて<きれいねえ→ほんとにきれいだねえ>という感情のみなどか。だって、等伯ってばレンブラントと同じく桃山時代の人やん。ヨーロッパ絵画史で唯美主義が出てくるのは19世紀末のイギリスにおいて。日本ではそのそれに250年も先駆けて、これほど精度の高い成果を残したんね。「楓図」はまだ<ここに幹があります、かえでの葉です、秋草です・・・>という認識がわずかに発生するけれど、「桜図」はもう、絶句。等伯の息子、久蔵はこれを描いた翌年に26歳の若さで急逝した。きっと、やりすぎちゃったんだよ、この領域はヒトを超えちゃってる。

永徳の唐獅子図屏風(「皇室の名宝展」@東京国立博物館)、宗達の風神雷神図屏風(「国宝展」@東京国立博物館)、光琳の紅白梅図屏風(「特別展示」@MOA美術館)に並ぶ至宝だと思う。やっぱ生で見んとあかんって、生で。ライブこそが全てだ。一対一で対話できる空間にこそ、凝集される何かが降りてくるのだ。その降りてくるものを捕まえるにも訓練が要る。習熟が要る。その自らを高める時間を経ないと知れない楽しさがあるんだと思うんね。足を運んで、良かった・・・

・・・

で、実はこの日はこのあと、京阪の丹波橋駅から近鉄京都線に乗り換えて奈良に向かった。奈良最大のお祭り「春日若宮おんまつり」をどうしても観たかったから。すでに貴重な芸術に浸りきって頭は飽和してたけれど、とにかく「その場」に行きたくて。文が長くなったからこの後は、明日の日記へ。


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