un capodoglio d'avorio
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2002年05月16日(木) つか「長嶋茂雄殺人事件」1

両国・シアターχにて観劇、久しぶりの「つか芝居」なぜか緊張する。
戦後最大のスターである長島茂雄を殺せるとしたら、それはいったい誰なのか、その動機は?
物語は野村前監督、同夫人、カツノリ、徳光和夫アナ、阪神村山実投手の実子、などなど、
虚実入り乱れた登場人物が長島という一点の周りで振り回され掻き乱され、
人生を棒に振っていってしまった様から、混然とした愛情と殺意が立ち上がって行く・・・
つかの基本的なテーマ「スターの華と凡人の努力の残酷な差」の一つのバージョンがこの舞台。

完成度は、やはり高くない。
「二等兵物語」や「ストリッパー物語」の時と同じシリーズだと思う、
エンタメ度は二の次に、一人一人の劇団員にピンを当ててあげようという恩情がそこにはある。
自身の著作の中でつかはシェークスピアの「タイカス・アンドロニカス」という戯曲の
登場人物の圧倒的な多さとそれがほとんど死ぬことを茶化して、
劇作家は役者からのつけとどけに埋もれていたのだろうと書いた、皮肉なことだ、
この作品も「タイカス〜」の特徴と重なる部分が少なくない。
さて、そういったネガティブ面に目を瞑って舞台を振り返ってみたい。

つか戯曲の特徴として良く挙げられるのが「弱者への優しい視点」である。
例えば「蒲田行進曲」の大部屋役者のヤス、例えば「ロマンス」のゲイのスイマー牛松、
「飛龍伝」の中学出の機動隊員山崎、「ストリッパー物語」のヒモの重さんなど、
社会的、関係的弱者が重要な登場人物として舞台に上がり、そして観客は彼等を笑ってしまう。
それはつかの罠だ。
つかは弱者を容赦無く舞台上で叩きのめし、いかに彼等が無力で無価値なのか、
それをギリギリまで突き詰めて追い込んで行く、その過程は滑稽なまでに残酷で。
いや、残酷だからこそ時に滑稽に映り観客は思わず笑ってしまう。
でも、その弱者への嘲りを含んだ笑いを、幕裏の劇作家は冷徹に観ている。

「貴様のその笑いは、それすなわち他人への嘲り、自分の矮小さの証明に他ならないんだ、下司がよ」

そういうつかのつぶやきが聞こえてくるのである。
そう、決してつかの「優しさ」は分かりやすい「いたわりの温かさ」をとることは無い。
むしろ、弱者が(そして私たちが)さらけだしたくない(直視したくない)部位を暴き、
衆目にさらしていくことでギリギリまで追い込んで行く、そういった残酷性にまず、顕われる。

例えば今回、この予告殺人事件の主担当となった小川刑事は以前、野球を志したという設定だ。
しかし内角球がどうしても怖くて打てない、腰が引けてしまう、克服できない。
だから野球の道をあきらめるのだが、最後に所属していたチームが読売巨人軍。
彼が引退した後に入れ違いで立教大学から一人の男が入団してくる、という伏線が張られる。
小川は自分はのちに大スター長島茂雄となるその男のせいで、
引退に追い込まれたという現実を直視したくないがため、
野球というスポーツから距離を置き、野球というスポーツを憎み、一人息子にも野球は一切させない。
その「ひがみ根性」は自分が好きで好きで仕方が無かった野球をあきらめざるを得なかったという
無念さの深さと相まって、とても強烈な陰険さで周りに波及しついには一人息子を死なせてしまう。
この事件の担当になってから、過去の長島に対する恨みが顕在化してきて自分は長島を
「警護する」のか「復讐する」のかで激しく葛藤する。


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