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2002年03月20日(水) 蜷川幸雄「身毒丸ファイナル」

マヤマヤ氏に取ってもらったマチネのチケット、嬉しい。
白石加代子と藤原竜也のコンビでの上演はこれが最後らしい、だから「ファイナル」。
「パンドラ」以降、蜷川アレルギーにかかっていたどかは、克服を目指す
(でもとにかく目当ては主演の二人、当然!)。

ストーリー、寺山修司のいかがわしさ爆発!の継母と子供の恋物語。
幼い時に母を失くした身毒丸が、父親の再婚相手である撫子に猛反発。
父親は家族愛というより世間体で再婚を決め「円満な」家庭の障害になる身毒を詰る。
家庭の円環を自分が乱したくないと嘆き、良き「母」を目指して殊更優しくつとめる撫子、
身毒はその「母」に手をあげて、家から飛び出していく。
ところが実はそんな猛反発する二人の態度は水面下で渦巻く情念の発露だった・・・

さて、いろいろあるけれどどかは結局この「身毒丸」を肯定している。

蜷川演出はしょっぱなから炸裂していた。
グラインダーで鉄パイプを削り、その火花を四つ、浮き廊下から舞台に降らす。
そこにぼんやりと浮かび上がる、明治大正期の和風バロック世界。
その後も物量力技演出は炸裂していく・・・が、以前に抱いたほどの違和感は感じない。
寺山原作のこの脚本と相性がいいのだろう、確かに同じ「過剰な」脚本でも野田と寺山は違うし。
ところでというか当然というか観劇中、演出家蜷川の存在を僕は片時も忘れられなかった。
主役はキャストではなく、俺だ!的な演出なんだよな、やっぱし
(つかは違う、自分は黒子、出てこないのだ)。

藤原竜也は巧かった、決して二十歳だとは思えないくらい、きれいな芝居をする。
イノセントと言ってもいいかもしれないが、彼の美しい裸身も含めて、
一つのイメージに集約されている、ピュアだ。
でもな、どかはもっと凄みとリアリティとドロドロを彼に期待してたんだけれどな。
そりゃあ、ジャニーズ風情の「似非ピュア」とは一線を画してたけどさあ。
なんだか新劇みたい、っていうかプチ内野聖陽みたい、人気はでるだろうけどさあ、これからもっと。
でもキレカッタなあ、彼の裸。
コクーン中の女性が唾をコクンと飲む音が聞こえた気がしたもの(あざといぜ、蜷川)。

でも蜷川も藤原もそれぞれ良かったけれどでもそれはどかのまん中まで到達する加速度は無かった。
しかし、圧巻、白石加代子。
彼女は一体、なんなのだ、もののけか?
と、言うくらい凄みとリアリティとドロドロを出していた。
彼女が話しはじめた瞬間、蜷川演出がすごい邪魔に思えたもの。
「いいところなんだから邪魔するな」って。
蜷川の物量作戦も藤原のピュアさも丸めてポイっな感じで、
現実感が極めて薄い寺山原作を舞台上に成立させる加速度を一人でつけてしまった。
藤原の尻をたたいて折檻する場面、あの形相。
もののけだ、この人。
つかの「寝盗られ宗介」でレイ子役をした藤山直美が自分の中で圧倒的だったけれど、
あの大女優藤山に匹敵するなあ、これは。
イデオロギーは無いけれど、「見せ物小屋」としての劇場という一つの理想を、
完璧に具現化したプロダクションだと思う、ここでなら蜷川も寺山も藤原も必然性がある。
支えているのは一人の女優だ。

ちなみに、ラストの演出はあざとさの度が過ぎて最低だと思う。
何度あれを使う気だろう、彼は。
でもでも観にいけて良かった、いい経験だよ掛け値無しで。
おおきにねマヤマヤ氏。


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