あたろーの日記
DiaryINDEXpastwill


2005年10月26日(水) ただすれ違う人でも。

 旧暦9月24日。

 あ、そうだ。
 最近地震が多いから、今一度避難用具の点検しておこうっと。
 リュックの中のカロリーメイトも食べちゃったし(^^;)

 仕事を終えて整形外科へ。
 診察室で先生が患部を押して、「ここは?」「いえ」「ここは痛む?」「そこはちょっとまだ痛いです」と、やりとり。
「・・・回復が早いねえ」「へへ」
 やったじゃん。この分だと・・・。
「まだ走っちゃ駄目だよ!!」
「・・・・・(ぎく)」
 また来週通院。
 まだもうちょっとびっこ。でも、昨日よりは軽々歩いているので、会社で「敏捷性が出てきた」と言われた。怪我をして分かる。両足で歩けることのありがたさ。

 毎朝自転車で通る病院の前に、いつも同じ時間に車椅子でマイクロバスを待っている、自分と同じ年代の男性がいる。私はその人の目の前をチャリでスーッと通り過ぎていく。毎朝、ただそれだけの関係だけど、私はその人の前を自転車漕いで通ることについて、巧く表現できないけれど、なんというか、気持ちがすっきりしないものを感じる。「申し訳ない」とか「前を走ってごめんなさい」と足が不自由でもなんでもない私が思うのは、足が不自由な彼に対して、また彼の不自由な足に対して、ずうずうしい間違った考え方だとは思うのですが、どうしても、そういう風に思ってしまう。相手の気持ちなど当然分からないけど、きっと車椅子の彼のほうでもなにがしか感じることはあるのではないかと思う。お互いただの風景の一部としか思わないか、それとも互いの視界に相手を認めたときに、それぞれの心の中になんらかの作用が及ぼされるか。仕方のないことだけれど、彼は足が不自由で、私は自転車をなんなく漕いでいる。彼が自分の足代わりとなるバスを待っている前を、私は自分の足で乗り物を操って通り過ぎていく。その、互いの違いがこんなにはっきりした形で毎朝現れる瞬間に、それぞれの立場からその現象について、たとえ一瞬でも去来する想いがある、たぶん。
 
 自分の人生は、どこまでが自分だけのもので、どこからが他人との共有部分なのか、よく分からない。
 だって、自分1人では今ここにいる自分というのは存在しなかっただろうから。
 家族や友人、会社の仲間・・・自分を産み育ててくれたり、会話したり様々に関係を持ってきた人達がいたからこそ、そういう中で人格を形成し、いろいろ経験して成長したからこその自分であるから。でも、明らかに自分の人生に密接に関わりを持つ人達だけが、人生を互いに共有しているのではなくて、ほんとうは、毎日すれ違うだけの人や、電車の同じ車両に乗り合わせる人も、同じ路線に乗る人でも、で、たぶん、道の前を歩いている人も、私の後ろを歩いている人も、あと、会ったことない人も、それから、この日記を読んでくださっている人も、そうでない人も、とのかくみんな、自分と人生を共有しているような気がしてならない。
 例えば今隣の部屋で隣人がした咳の音が聞こえて、私が「あ、風邪を引いているのかな」と思えば、もうそれだけで隣人は私の人生の一瞬に入り込んだことになるし、私が乗った電車の車掌は、私の人生の数十分に関わったことになるし、その車掌の家族は、私の乗った電車を動かしてくれる車掌の今日という日を支えていることによって、私の人生に関わっている。私の周囲に溢れる多くの物は、多くの企業、工場、そこに働く人々によってもたらされたものであるので、物を介して私と多くの人の人生の一部が共有されている。直接触れるなにかを媒介しなくても、世の中の気分を多くの人と自分が共有しているし、地域や、国家や、地球規模で、人間の意識や感情が共同で何か目に見えないけれど、ある種の雰囲気を作り出していると考えれば、この世に自分と人生のほんの一部でも共有していないという人は皆無なのではないか、と思えてくる。
 自分という存在は、自分次第でどうにでもなるものだけど、一方で自分だけの力で生かされているわけではないんだな、と。
 そんな風に思うと、毎日嬉しいこととか楽しいこととか頭に来ることとか嫌なこととか、さまざまな感情が自分に生まれるけど、その瞬間瞬間を与えてくれる人達、名前を知っている人とか、そうでない、ただすれ違いざまぶつかった人とか、目が合った人とかでも、世の中全ての人が自分の人生に影響を与えてくれる存在なのだ、と気づかされる。
 世の中に、自分にとって意味のない人は皆無なんだと思うと、満員電車でも、路上でも、会社でもスーパーでも、嫌な想いをすることが減るかな。


あたろー |HomePage