あたろーの日記
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生きるということは、それだけでもう苦痛を伴うものなのかなと思う。 毎日の生活を繰り返す、それを何千回、何万回も繰り返す、これって実はものすごいことなんじゃないかって気がする。
司馬遼太郎の「梟の城」を読んでそんな風に考えていた。 図書館から司馬遼太郎全集を借りてきて読み始めたのだけど、字が小さくて読みづらい。第一巻の「梟の城」からはやもう挫折かと思って、本棚の文庫本の中に、以前買って読み始めたもののやはり最初で挫折した新潮文庫版があったのを思い出して、結局そっちを読むことにした。前は冒頭から入り込めずついていけなかったのだけど、今回は読み始めたら止まらなくなって、一気に読んでしまった。ちょうど雷雨で外出できなくなったことだし。 司馬遼太郎の30代の著作。ここまで人物の心の綾を描ききれるのだと驚いた。登場人物達の微妙な心の動きを、ごまかすことなく丁寧に追っていく。忍者という特殊な世界に生きる人物達に素直に共感し、感情移入できるのは、心の襞を緻密に書き表していく作家の技量によるところ大きいと、感銘を受けた。 主人公の葛籠重蔵と恋仲になる小萩という女性の描き方も、おろそかになっていない。重蔵の下忍である黒阿弥もとても味のある人物だと思う。敵も味方も裏切り者もみな魅力的に描かれている。 読んでいてどうしても、藤沢周平の「用心棒日月抄」に始まる用心棒4部作を意識してしまった。こちらは時代も場所も「梟の城」とは全然異なるけれど、孤独な一匹狼的立場の主人公と女性の忍者との関係が作品の骨格の大事な部分を作っているのは同じ。「用心棒・・・」の主人公は侍で、「梟の・・」のほうは忍者だけれど。主役とその相手の男女は、どっちの作品も魅力的。なんとなく人物像に共通点が多い気もする。 ただ、決定的に異なるのは、「用心棒・・・」シリーズのほうは読んでいてはらはらしながらも全体的に飄々とした明るさが漂っていて、まさに痛快という言葉がぴったり当てはまるのに対して、「梟の・・・」のほうは、何か胸が締め付けられるような切羽詰った感情に追い立てられるようにして文章を追っていってしまうことかも。読みながら、主人公に対して、何故生きるのかを問いかけながら、彼の後を追いかけるような感じでもある。 司馬遼太郎が「梟の城」を書いたのが30代半ば過ぎ。藤沢周平が「用心棒日月抄」を書いたのが40代後半。藤沢周平作品は、読んでいて理解できないほど暗くて残酷に思える結末のものもあるから、暗い明るいで両作家の作品を較べるわけにはいかないけれど。 「梟の城」よかったです。 人の生きざまってなんだろうって、しばらく呆然としてしまいました。
確かだいぶ前に映画だったかドラマになってるんだけど、イメージが崩れるので読み終えるまでは調べないようにした。さてと、これから検索してみようっと。
。。。で。 今検索してみた。 1963年と1999年の2回映画化されてるんだ。 1999年のほうはそういえば記憶にある。観てないけど。観なくてよかった。小説読みながら自分の頭の中で浮かんでた登場人物たちと映画での俳優たちがイメージ的にもぜんぜん一致しない。読む前に配役忘れててよかった(^^;) 葛籠重蔵役の俳優さんは好きだけど、少なくとも葛籠重蔵役にはミスキャストだと思った。私的には。もっと、立ってるだけで凄みのある俳優さんじゃないと、葛籠重蔵は難しいっすよ。・・・と思うと、なかなかいない。。 ちなみに、一昔前にNHKで放映された「用心棒日月抄」のドラマ化「腕に覚えあり」(「新」のつくほうじゃないです)のほうは、主人公はじめ、どの配役をとってもぴったり!イメージどおりだったと思う。 でも、こういう例のほうが珍しいのかな。。
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