ダレソレ  2008年08月23日(土)
寂しさを感じないまま動きまわれたらいいのにと思いますが、動きを止めた瞬間から亡霊に襲われるように、ひやりと、寂しさが体中の見えない隙間より入り込んでくるのです。まるで、走っても走っても、自分自身の影からは逃れることができないように。
誰かと一緒にいたい、誰かのそばにいたい、誰かと繋がっていたい。その手の欲求から完全に身を離して生きていられることなんてないのでしょうか。不自由なことです。
おそらく「誰でもいい」などとは思わなくなるはずだし。必ず次にはもっと欲深くなっていく。誰々のほうがいい、誰それのほうが熱い、誰かほかにいないのかなあ、などとうわごとのように繰り返して。

でもやっぱり「誰か」と言ったって、どこの誰かでもいいなんていうわけではない。特に私の場合は、ごく限られた「誰か」ということになる。エニィでもメニィでもなく、ひどく限定的な、それこそ他に行き場が無かったような人でないとダメなんだと思う。けれど人間的な弱さの部分で感じてしまう寂しさ、「誰かが傍にいてくれたら…」などと感じる部分について求めてる「誰か」というのはそれこそ誰でもいいから!ぐらいの捨て鉢な気持ちで体が訴えてくる感じです。これは困った。いや、これが普通なのか。

いずれにせよ、この体から寂しさの影を切り離すには、思いっきり躍動して陽の燦々と当たる世界で駆け回り、駆け続けるか。それとも、影だの寂しさだの冷たさだのに後追いで捕まることさえないぐらい、深い闇に常に棲まうか。そう。後者のそれを狙って私は自覚的に生きているけれど、ある程度、世慣れしてる人種や、この世で頑張っていきている人間というのは、あえて闇に身を置くようなことはしないのです。スタンスの表明、演技として闇というポーズを使うことはあっても、本当に闇に身を置き、性分も闇に浸されているような人はなかなか、いない。いたとしたら、本当に少しややこしい人か。

全く、どうしろというのか、わかりませんけれど、電子レンジが多少汚れてるようなので今から磨きます。ステンレスは優秀だけど汚れることに変わりはないんだ。拭こう。己の業を歌いながら。おほほ。そして世界を黒い海に還すことを夢見ながら、洗濯物の生乾きをいかにして防げばよいのかをまなんでゆけばいいのだ。

ああ、今日は珍しく、隣の部屋に隣人がいる。奴はいったい何者だろう。ここ2週間ぐらいで初めてベランダに洗濯物を見た。どこかに出ているのだろうか。どうやら30歳前後の男性のようだ。あんなに荒れ果てたベランダで人がいるとは思わなかった。飲み歩いてて帰ってこないのか、娼宅でもあるのか。さっきからさんざん「誰か」「誰か」と言ってきたけれど、こういう一般的な隣人はイヤです。なんというか一般的すぎて生々しい。それよりも「アーティスト」だの「ミュージシャン」だの「フォトグラファー」とかいう得体の知れない横文字カテゴリーの人種のほうが気を許せます。宙に漂っているようなところが。地に足をつけていない人の方がいいなあ。

誰それ、っていうぐらい珍妙な人の方がいいなあ。って、寂しさの話はどこにいったんだ。我儘でごめんなさい。けれど、爪がどんどん伸びてゆくように、わたしのこの欲求は芽を開いてゆくのです。たとえ時間がどこまで経とうが。




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