クロエ・クロウ  2005年09月24日(土)
05/9/24(Sat)

時代という巨大で繊細で、あまりに変容の激しい生命体の中で、エイズやテロやカトリーナに触れながら、同時に、圧倒的速度で忘れゆき、そしてまた、言語やイメージを発する者どもによってそれらを思い出させられる。しかし時代の中で事態が発生しこの世が揺籃しているまさに「その時」、リアルタイムで出会う状況と、後に言説、記録、表現などとして出会わされる、時代の状況の「焼き増し」は全く別のものなので、結局は刹那的なままに時代は揺籃していて、私達は自分の意識を繋ぎとめるだけで精一杯になるだろう。真面目に真摯にそれと付き合って生きていこうと思うなら。


そしてある一定の期間を経ると我々は死んでしまう。この世の時代はその先も行き続け、変容を無限に繰り返すというのに。「このままでは死んでしまう」「ただ単に、何もしないまま、死んでしまう」という本能的な危険信号が敏感に察知する経験は誰にでもあるはずだ。その通り、我々はこの世の生命力に対し、極端に寿命が短く、あまりに有限である。


だから戦慄が必要なのだ。


叙情的な官能、良心的な趣味、家庭的な愛、前進的な希望。そんなものだけでは絶対に足りない。それで充実された人生、生活(人間)など圧倒的に乏しい。戦慄が必要だ。それを催させるものは何でも良い。これ以上とやかく言うと戦慄どころか逆に眠たくなるだろうから言わない。


饒舌な言葉は人を覚醒させ、震わせることが出来る、かも知れない。逆に、言葉の放ち方が悪ければ、人を退屈させ、眠らせてしまう。


問題はセンスだ。


極限まで研ぎ澄まされ、前人未到の域にまで達したセンスについては、多くの著名な芸術家なり写真家なり、作家なり音楽で既に誰もが知っている通りだ。感覚が極限に行き着くというのはどういうことか? 「過去、自分は生まれた」「今、生きている」「未来、いつの日か、死ぬ」の3本立てを整然と知覚する状態だと思う。

それも、自分自身についてと、自分や周囲の環境、海の向こうの国、全てを包括した、時代という生命について、両方に対して。


極限感覚による、上記二者の生命力の知覚を可能にし、ひいてはそこから我々の人間性に戦慄を与えてくれるものとは。一瞬の、交感神経や大脳の錯乱的動揺―フラッシュ―恍惚から生まれる可能性とは。とりあえずは、時代;世界の生命揺籃に追従していては、死ぬだけで終わる。

恋愛―肉体関係を持つまでに時代と理解し合う努力をするか、逆に、殺し合うか。その単純でありがちな二択を使い、時代と距離を置いたり、肉薄したりを繰り返し、私達個人の命をそこに投入、更には感染させてみようか。何がどうなるか分からないほど、今の私など存在性がゼロに等しいのだけれど。とりあえずは、戦慄だ。薬物に似せるか、マラリアに似せるか・・・。




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